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エアシャカール列伝~みんな夢でありました~

『未完の大器と知らずに』

 このように、調教助手たちからも恐れられたエアシャカールの騎手には、日本のナンバーワン騎手である武豊騎手が迎えられることになった。気性的に、下手な騎手に任せられる馬ではなかったことも確かだが、何よりも森師は、この時点でエアシャカールの翌年の最大の目標を、日本ダービーに置くことに決めていた。98年にスペシャルウィーク、99年にアドマイヤベガでダービー2連覇中の武騎手ならば、心強いことこの上ない。もともと森厩舎は武騎手への依頼が多く、森師自身

「うちの主戦騎手は武くん」

と公言してはばからなかったくらいだから、依頼にあたって障害は何もなかった。

 森師は、エアシャカールの最大目標を翌年のダービーに置いた関係で、デビュー戦はダービーの舞台となる東京競馬場で使いたい、と考えていた。また、武騎手に乗ってもらう以上、関西に拠点を置く武騎手が東京に行く日であることが望ましい。当初デビューを予定していた日に角膜炎でレースを使えなかったこともあり、エアシャカールのデビューは天皇賞・秋(Gl)の当日、武騎手がスペシャルウィークとともに東上する日と決まった。デビュー戦がいきなりの輸送競馬となることや、この日が当該開催の最終日にあたり、新馬戦とはいえ他の出走馬たちのほとんどが実戦経験のある折り返しの馬たちとなることなどは、森師にとっては大事の前の小事に過ぎなかった。

 もっとも、東京でデビューしたエアシャカールの初戦は、激しい気性にデビュー戦、輸送競馬が重なり、大きく出遅れての5着に敗れてしまった。レースの後武騎手は、森厩舎に

「今はまだ全然足りないけれど、クラシックには乗ってくるでしょう」

と伝えたという。「クラシックには乗ってくる」と「クラシックを狙える」とは同義ではない。デビューの時からダービーを意識した発言が飛び出していたスペシャルウィーク、アドマイヤベガの時よりはかなり控えめな発言というべきである。この落差は、武騎手のエアシャカールに対する評価を物語っていた。

 しかし、デビュー戦で敗れて未勝利戦に回ったエアシャカールは、次走で初勝利を挙げた。その後500万下で1戦して2着に敗れ足踏みしたものの、今度は有馬記念(Gl)と同じ日に格上挑戦でホープフルS(OP)に挑み、直線での競り合いをクビ差制して2勝目を挙げた。

 2歳時のエアシャカールが走った4戦のうち3戦で手綱を取った武騎手は、一度乗るごとに、それも最初に思ったよりも早く成長していくエアシャカールの素質を認めて評価を上方修正し、

「完成度ではスペシャルウィーク、アドマイヤベガに劣るけれど、将来性では負けない」

というようになった。毎年多くの素質馬の騎乗依頼が集まる武騎手だが、この年に依頼を受けた馬たちの中にはエアシャカール以上の素質馬はおらず、武騎手にとってもエアシャカールは、スペシャルウィーク、アドマイヤベガに続くダービー3連覇のためのパートナーとして映るようになっていった。

『2000年牡馬クラシックロード』

 2000年・・・20世紀のみならず、第2千年紀の末尾を飾る「大世紀末」のクラシック戦線は、大混戦の様相を呈していた。というのも、1999年の旧齢3歳重賞戦線からは、翌年のクラシックの主役となるべき存在がいまだに現れていなかったからである。

 本来ダービーに最も近いのは、朝日杯3歳S(Gl)を制した3歳王者であるべきはずである。しかし、彼らの世代の朝日杯馬は、外国産馬でクラシックへの出走権を持たないエイシンプレストンだった。また、内国産馬の中で最も実績に優るのは、デイリー杯3歳S(Gll)を勝って朝日杯3歳Sで2着に入ったレジェンドハンターだったが、こちらも笠松競馬所属の地方馬であるがゆえに、皐月賞トライアルで良績を残さない限り、クラシック戦線へは進めない。結局2000年に入った直後の時点での有力馬は、東京スポーツ杯3歳S(Glll)を勝ったジョウテンブレーヴ、ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)を勝ったラガーレグルスあたりだったが、彼らはいずれも既に大敗も経験しており、例年の有力馬に比べて粒が小さい感は否めなかった。

 そんなメンバーの中で、エアシャカールもクラシックの候補に数えられてはいたが、彼自身も「粒が小さい」1頭にほかならなかった。エアデジャヴーの弟でサンデーサイレンス産駒・・・という血統的背景こそ注目を集めたものの、重賞未挑戦のうえ、1番人気で勝ったホープフルS(OP)は、2着との着差が小さく、さらに良馬場で勝ちタイムが2分5秒9というのはいかにも遅すぎた。誰もが半信半疑・・・そんな雰囲気の中でエアシャカールの、そして1997年生まれの牡馬たちのクラシックロードは幕を開けた。

『道いまだ遠く』

 エアシャカールの始動は、皐月賞トライアル・弥生賞(Gll)に決まった。このレースには、エアシャカール以外にも前年の実績馬ラガーレグルス、ジョウテンブレーヴ、さらに京成杯を勝って勢いに乗るマイネルビンテージらが参戦してきた。だが、彼らを抑えて1番人気に支持されたのは、こぶし賞(500万下)で6馬身差の圧勝を飾り、評価を急上昇させていたフサイチゼノンだった。

 武騎手は、このレースでエアシャカールに、道中は最後方で脚をため、息長い末脚を生かしたロングスパートをかける競馬をすることに決めていた。エアシャカールは、レース前にはパドックで凄まじい入れ込みを見せ、暴れたり、尻っぱねをしたりしていたものの、いざレースが始まると、武騎手の意図どおりにスタート直後からずっと最後方で競馬を進め、残り800m地点手前からまくり気味に進出を開始した。第4コーナー付近で早くも4、5番手まで押し上げたエアシャカールと、前との差はほとんどなくなったように見えた。

 ・・・だが、この時ほぼ並んだかに見えた相手が、そこから一気に馬群を抜け出しにかかり、エアシャカールは一瞬置いていかれ気味になってしまった。ここで仕掛けたのは、それまで好位につけていたフサイチゼノンだった。

 エアシャカール自身の末脚は、直線に入ってからも決して勢いが衰えたわけではなかった。他の馬たちがかたまった馬群は外からまとめてかわし、突き抜けていく。だが、先に抜け出して前方にただ1頭残したフサイチゼノンとの差だけは、どうしても縮まらない。彼らがゴール板の前を駆け抜けた時、2頭の間には1馬身半の差があり、さらにエアシャカールは、後ろのラガーレグルスにもクビ差まで肉薄されていた。

 この日のレース内容によって弥生賞馬フサイチゼノンは皐月賞の最有力候補に躍り出た。それに対し、2着馬エアシャカールはというと、皐月賞の優先出走権こそとったものの、「サンデーサイレンス産駒の大将格」の評価をフサイチゼノンに奪われる形となってしまった。

 ・・・実際には、武騎手はこの日「ある課題」を持って弥生賞のレースに臨んでおり、そのレース内容も、彼の意図に沿うものだった。しかし、そのような隠された意図など、この時点では明らかになるはずもない。エアシャカールと武騎手は、本番を前に一時日陰の身に甘んじることになった。そんな彼らが本番で再び注目を集めるようになったのは、彼らとは無関係のところで起こったライバル陣営・・・フサイチゼノン陣営の、まさかの内紛と自滅によってだった。

『幻に消えた強敵』

 弥生賞で「皐月賞の最有力候補」という不動の地位を勝ち取ったフサイチゼノン陣営は、「フサイチ」の冠名のとおり、当時の競馬界の風雲児とされた関口房朗氏が馬主であり、管理調教師は田原成貴師だった。関口氏は田原師のきわめて有力な後援者と見られており、田原師の騎手引退直後から、2人の派手な言動は競馬界に様々な意味での波紋をもたらしていた。彼らから発した最大の競馬界のニュースは、なんといっても米国のセリで、後のケンタッキーダービー馬フサイチペガサスを、なんと400万ドル(当時のレートで約5億6000万円)で競り落としたことだろう。

 ところが、鉄のように固いと思われた彼らの関係は、フサイチゼノンによって、瞬く間に破綻を迎えてしまった。この時の騒動を「フサイチゼノン事件」として記憶にとどめているファンは多いはずである。

 ことの始まりは、皐月賞の1週前追い切りだった。皐月賞まであと10日ほどで、各馬とも大舞台への最終調整の段階に入っており、中でも皐月賞での1番人気が確実視されるフサイチゼノンの走りは、マスコミの注目を集めた。フサイチゼノンはそこでもきっちりと時計を出し、仕上がりは順調に見えた。

 ところが、その数日後に突然マスコミに「フサイチゼノン、皐月賞回避」の報が流れ、田原師もあわてて集まってきた記者たちに対して回避を正式に発表した。回避の理由は

「走りに覇気がない・・・」

というものだった。

 故障でもないのに、調教の印象だけで、しかも皐月賞という大レースを回避するというのは、前代未聞の出来事である。記者やファンは、田原師の思い切りがいい・・・思い切りがよすぎるようにも思われる決断に驚き、そして呆れた。・・・だが、驚き呆れたでは済まなかったのが、フサイチゼノンのオーナーである関口氏だった。関口氏は、マスコミ報道に接するまで、フサイチゼノンの皐月賞回避について田原師からは一言も相談されていなかったのである。

「馬主の意向も聞かずに皐月賞ほどの大レースを勝手に回避するとは何事か」

ということで、関口氏は激怒した。その後の検査で、フサイチゼノンは右トウ骨に骨膜炎を発症していたことが明らかになり、田原師の判断は間違っていなかったことが証明される形となったものの、2人の間に生じた溝はついに埋まることなく、皐月賞前後の競馬界は、「田原対関口」のニュースで埋め尽くされることとなった。・・・この「フサイチゼノン事件」は、やがて関口氏がフサイチゼノンを含むすべての所有馬を田原厩舎から引き揚げるという形で決着した。フサイチゼノンの移籍先は、奇しくもエアシャカールと同じ森厩舎だったが、その後、さらに米国のN.ドライスデール厩舎へと再移籍している。もっとも、フサイチゼノンは結局弥生賞以降勝利を味わうことなく引退しており、人間たちのトラブルの犠牲となってしまった感を否めない。

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