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エアシャカール列伝~みんな夢でありました~

『訪れた休息のとき』

 宝塚記念の後、休養に入ったエアシャカールは、天皇賞・秋(Gl)で復帰し、ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)という古馬中長距離の王道を歩むことになった。

 2002年秋は、東京競馬場が改修工事に入るため、例年ならば東京競馬場で行われる天皇賞・秋、ジャパンCとも、中山競馬場で行われることになっていた。皐月賞優勝をはじめ、それまでの戦績は連対率10割の中山競馬場で秋の中長距離Glのすべてを戦えるというのは、エアシャカールにとっては有利な材料だった。

 まず武騎手とのコンビで天皇賞・秋に出走したエアシャカールは、後方からよく伸びて4着となった。着順こそ宝塚記念と同じだが、相手関係が格段に強化されていたことを考えれば、失望すべき結果でもなかった。

 だが、ジャパンC(国際Gl)では、2001年の年度代表馬ジャングルポケットと騎乗依頼がかちあった武騎手がジャングルポケットを選んだため、田中勝春騎手とのコンビで臨まなければならなくなった。そして、その生涯でジャパンCに次ぐ惨敗となる12着に沈むと、その期待感はたちまちしぼんでしまった。

 その後は香港国際ヴァーズにも登録していたエアシャカール陣営だったが、この時にはエアシャカールの海外遠征を本心から信じていたファンが、果たしてどれほど残っていただろう。そして、エアシャカールは案の定というべきか、香港へは向かわず、有馬記念(Gl)へと向かうことになった。・・・もっとも、この時には批判の声もあがらなかったのは、このころには彼の海外遠征に期待をかける声がほとんどなくなっていたからにほかならない。

 当初有馬記念がラストラン、といわれていたエアシャカールだったが、ジャパンCの大敗後、フェブラリーS(Gl)に出走する、という情報も流れた。振り返れば菊花賞以来2年間勝利から遠ざかっていたエアシャカールだが、ダートで可能性を示せば、種牡馬としての価値も上がるから、ということが理由として言われていた。しかし、有馬記念でも9着に終わり、さらに種牡馬としてのシンジケートが無事に組まれたこともあって、結局当初の予定どおり、有馬記念限りでの引退が正式に決定した。2000年クラシック戦線の二冠馬であり、また一時は「準三冠馬」とまで称えられながら、最後はあまりに寂しい競走生活を送らなければならなかったエアシャカールの戦いは、ここにようやく終わりを告げた。

『エアシャカールという存在』

 エアシャカールの約3年間にわたる競走生活は、クラシック戦線で栄光をほしいままにした最初の1年間と、二冠馬らしからぬ凋落ぶりによって哀愁を誘ったその後の2年間の二つに分けられよう。その区分によれば、エアシャカールは2000年ジャパンCを機に「準三冠馬」から「最弱の二冠馬」へと評価が激変してしまった。

 ただ、エアシャカールの後期は、ついに勝てなかったとはいえ、そのレース数は10戦にすぎない。Glを勝った後、その程度なら一度も勝てないまま去っていったGl馬は珍しくない。さらに、エアシャカールの二冠達成後の10戦の中には、3戦の連対、3戦のGlでの掲示板確保が含まれている。今になって彼の競走生活を振り返ってみれば、世間一般に思われているほど彼が無様な走りを繰り返していたわけではないことは、頭にとどめておく必要があるだろう。常に実力以上の期待を背負わなければならなかった彼は、その意味で非常に不運、かつ不幸な馬だった。彼の生涯の20戦のうちGllでの戦績だけを取り出してみると、5戦走って2着4回3着1回である。彼がもし「二冠馬」、「準三冠馬」でなかったとしたら、ややヘンな意味ではあっても人気者になっていたかもしれないのだが・・・。

 そんな彼が汚名を雪ぐためには、種牡馬としての成功をおいてほかになかった。幸い、サンデーサイレンスの直子であり、さらに母系の評価も高いエアシャカールは、種牡馬としての期待をそれなり以上に集めていた。・・・彼が種牡馬として成功を収め、競走馬として受けた屈辱を晴らし、準三冠馬の栄光を取り戻す可能性は、決してありえないものではないはずだった。しかし、エアシャカールの反攻は、始まったばかりで・・・否、始まったともいえぬ間に、幕を下ろしてしまった。

『夢のように儚く』

 エアシャカールが故郷に帰って2ヶ月余りが経過し、2003年の種付けシーズンが始まってすぐのことだった。門別のブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬としての生活を始めていたエアシャカールは、朝にある牝馬に種付けを済ませ、その後は放牧地に放牧されていた。だが、次に牧場の係員が彼を見つけたとき、彼は三本脚で呆然と立ち尽くしていたという。そのそばでは、彼が蹴り倒したと思われる牧柵が倒れ、そしてその無意味な行為の代償に、彼の左後脚は既に複雑骨折していた・・・。

 エアシャカールはただちに獣医の診察を受けたものの、予後不良の診断を受け、その日のうちに安楽死となった。その栄光が幻であったかのように、その馬生までも夢であったかのように余りにも短い生を駆け抜けたエアシャカールは、わずか6歳の短い生涯を終えた。2003年3月13日の悲劇だった。

 エアシャカールが生前に種付けをした繁殖牝馬は11頭にすぎず、そのうち実際に受胎が確認されたのはわずかに4頭だった。実際に生まれた子供たちがすべて牝馬だった時点で、後継種牡馬を残すという可能性は絶たれてしまったのである。

 その4頭のうち中央入りを果たしたのは3頭で、そのうち1勝を挙げることができたのはエアファーギーただ1頭だった。そして、繁殖入りして産駒を残したことができるのは、そのエアファーギーを含む2頭だけだが、彼女たちの産駒が繁殖入りした事実は確認できておらず、エアシャカールの血統は、競馬界から完全に絶えてしまう可能性が非常に高い。

『悲劇を悲劇とせぬために』

 エアシャカールは、自らの名誉を取り戻すことのないまま、あまりにも早く短すぎた馬生を終えてしまった。彼が悲運の中に生き、そして死ななければなければならなかったのは、クラシックの理想と現実の乖離が、彼らの戦った2000年に最も大きなものとなってしまったためと言えよう。

 中央競馬の「最強馬決定戦」でありながら外国産馬を完全に締め出すという矛盾は、「クラシックの勝ち馬が世代最強馬ではない」という現実がありうる点で、クラシックの勝ち馬の価値をおとしめるものだった。1977年にマルゼンスキーという持ち込み馬(当時は外国産馬と同様にクラシックから締め出されていた)によってその問題が意識されながら放置されたこの問題は、90年代の多くの外国産馬たちの台頭によって特に強く意識されるようになり、やがて2001年以降の日本ダービーを皮切りとするクラシックの開放へとつながった。

 このように、現在では大きく是正されたこの問題だが、その矛盾は、外国産馬がいない最後のクラシックとなった2000年に最も大きく噴出する形となり、そのクラシック戦線で「世代の王者」としての戦績を残したエアシャカールが、その負の側面を一身に負う形となってしまった。歴史上三冠馬に最も近いところで挫折した二冠馬は、クラシックの外国産馬への開放の前年に、最強馬は内国産馬の王者のみで決しうるという古典的なクラシック三冠の理想がもはや幻影となったということを、その身をもって実証したのである。・・・たとえ彼自身が、その役割を望んでいなかったにしても。

 現在クラシック三冠は、外国産馬への開放によってその価値、権威の再構築を図っている。それは、導入以来常に英国流クラシック三冠とともに歩み、そして繁栄の礎としてきた中央競馬にとって、非常に賢明な選択というべきだろう。「競馬の本質はギャンブルだ」という説も有力だが、日本で競馬が競輪、競艇などとは違った大衆的な娯楽として受け入れられたのは、競馬の持つ特色である人と馬との関係、馬の血統、世界とのつながりといった物語性を、人々に広く認知させることに成功したからに他ならない。そして、その物語性の中核となってきたのは、日本においては常にクラシック三冠だった。

 日本が取り入れた英国流のクラシック三冠は、世界的には本場の英国も含めてもはや少数派となっている。しかし、日本のホースマン、ファンが三冠にかけてきた思いは、今なお日本競馬を支える原動力となっている。今や外国産馬に開放されたクラシックだが、日本の馬産のレベルアップや経済情勢の変化等により、実際に外国産馬が制覇したのは2007年の優駿牝馬におけるローブデコルテただ1頭にとどまっており、牡馬クラシック三冠レースではいまだに優勝馬が出ていないというのは、皮肉な話である。

 「準三冠馬」エアシャカールは、かつてクラシック三冠が迎えていた危機と問題点を、我が身を犠牲として私たちに明らかなものとしてくれた。その問いかけに対する回答のひとつが日本競馬における外国産馬への門戸開放だったとすれば、その意義は極めて大きい。しかし、実際には、その点が語られる際にエアシャカールの名前が前向きに取り上げられることはほぼないし、それどころかエアシャカールというサラブレッドに対する評価自体も、まるで「準三冠」の偉業が夢であったとでも言わんばかりに極めて低いところで定着してしまった。「最強馬を選抜する」という物語に支えられたクラシックの権威の復興の一方で、それと引き換えに辱められたエアシャカールの名誉は、今なお再評価の兆しすら見えない。

 クラシックを勝つ栄光が「みんな夢でありました」などと結論付けられる悲劇は、本来ならばあってはならない。悲しいかなそのような位置づけでとらえられがちなエアシャカールもまた、時代の狭間に生き、時代の流れの中に消えていった犠牲者の1頭である。私たちは、せめてそんな彼の名前を記憶に残し、クラシックが揺れ動いた激動の時代のひとこまとして、その悲しみを心に刻まなければならない。

 2000年牡馬クラシックロード・・・あの時代は、なんだったのだろうか。あの輝きは、なんだったのだろうか。すべてが夢であったかのような彼の激しい流転の馬生は、歴史の中でも特異な存在となった

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