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エアシャカール列伝~みんな夢でありました~

『最後の試練』

 アグネスフライトが動き始めたことによって、レースにはいよいよ動きが生じた。レースも山場を迎え、前と後ろの駆け引きが激しくなる。力ある者は動くべき時機を見極めようとし、力なき者は脱落していく。・・・そしてエアシャカールは、内ラチに近い位置を通って馬群の中から抜け出す機会をうかがっていた。

 直線に入ると先行馬たちが脱落し、代わってジョウテンブレーヴが先頭に立った。アグネスフライトは4、5番手まで押し上げ、それに取って代わる機会を狙っている。・・・その一方で、エアシャカールの前にはまだ馬群の壁が残っていた。抜け出す進路があるのか、と一瞬ヒヤリとしたファンは多いに違いない。

 だが、武騎手は手綱の手応えから、好勝負を確信していた。わずかな進路でもあけば、武騎手の指示に即時に反応してそこへ飛び込み、そして馬群から抜け出すだけの脚は残っている。そんな彼の感触は、やがて現実によって正しいことが証明された。内を衝いたエアシャカールは、馬群のわずかな隙間を衝いて飛び込むと、そのまま馬群から抜け出しにかかったのである。

 武騎手は、右側の内ラチを頼りに、今度こそ力の限りエアシャカールを追った。エアシャカールから一歩遅れて、外からトーホウシデンが、エアシャカールと同じ脚色で伸びてくる。アグネスフライトは、末脚が不発のまま馬群の中でもがいている。

 こうして菊花賞の行方は、エアシャカールとトーホウシデンの2頭に絞られた。激しい叩き合いを演じる彼らと後続の差は、みるみる広がっていく。だが、肝心の彼らの差はほとんどない。最後の100m強は、完全な彼らの一騎打ち、力と力の真っ向勝負、それだけだった。

『そして世代の頂点へ』

 だが、激しい叩き合いとなっても、エアシャカールはついにトーホウシデンに前に出ることを許さなかった。トーホウシデンに最後までクビ差のリードを保ったままゴールしたエアシャカールは、ついに皐月賞に続く二冠を達成したのである。

 勝利を確信した武騎手は、ゴールの直後に右手に持った鞭を突き出し、勝利のガッツポーズをとった。それは、悩みに悩んだ末の作戦で、見事栄冠を勝ち取ったという歓喜と誇りにあふれたものだった。

 武騎手のエアシャカールに対する悩み・・・それは、皐月賞馬であり、かつダービーでもわずか7cm差の2着だったにもかかわらず、ササり癖のために低い評価をされがちな彼に、正当な評価を得させてやりたい、というものだった。ここで菊花賞を勝って二冠馬となれば、世間がエアシャカールを見る目も変わる。

「ダービーで悔しい思いをしたので、世代ナンバーワンの座をとらせてやりたいと思っていました」

 それは、間違いなく武騎手の本心だった。

 ダービー馬アグネスフライトは、この日5着に沈んだ。この日の結果によって、エアシャカールは「世代のナンバーワン」という地位を不動のものとしたと思われた。トライアルでフサイチゼノン、フサイチソニックに敗れたまま「勝ち逃げ」されたという点はあるものの、三冠本番での素晴らしい戦績は、それを帳消しにしてなお余りあるものだった。一度だけ勝ったのはトライアルで、しかもその勝利がフロックでないことを証明さえすることなく去っていった者たちが何を言おうと、「準三冠馬」の栄光の前は揺らぐものではない。

 ・・・ダービーの2着によって、彼が「三冠馬」と呼ばれることはなくなった。だが、歴代の二冠馬たちの中でも、残る一冠を7cm以下の差で逸した例は、ほかにない。菊花賞を勝ったことで、彼は「歴史上最も三冠に近かった二冠馬」、すなわち「準三冠馬」という境地に至った。彼の地位を揺るがすとしたら、クラシックとはまったく無縁の外国産馬たちだっただろうが、この時点では、イーグルカフェ、エイシンプレストン、アグネスデジタルといったトップクラスも、エアシャカール以上のインパクトを持つ戦績を残していない。春にNHKマイルC(Gl)を制したイーグルカフェは、その後は古馬相手の天皇賞・秋(Gl)4着という善戦はあってもしょせんは未勝利だったし、前年の2歳王者エイシンプレストンは、やはり春のNZT4歳S(Gll。年齢は当時の数え年表記)優勝の後に骨折し、復帰戦のスワンS(Gll)は惨敗していた。大器と名高いアグネスデジタルも、この時点では芝未勝利である。エアシャカールを「世代ナンバーワン」と呼ばずして、何を「世代ナンバーワン」と呼ぶのか・・・。

 だが、エアシャカール陣営は、そんな栄光の中に安住することを嫌い、さらなる道へと歩み出すことを決意した。世代の頂点に立った今、次なる目標は日本の頂点であり、また世界の頂点だった。

 菊花賞後、森師はエアシャカールをジャパンC(国際Gl)に挑戦させると言明した。ダービー後に敢然とキングジョージに遠征した「国際派」エアシャカールにとって、国内で上の世代の一流馬のみならず、世界の強豪と戦うことができるジャパンCは、うってつけの舞台だった。さらに、この年から菊花賞の施行時期が繰り上がったことで、菊花賞からジャパンCに進んでも中4週の間隔を取ることができる。エアシャカール陣営の新たな挑戦に向けて、すべての条件は揃っていた。翌2001年には再度の海外遠征を行うことも見据えていた森師にとって、菊花賞からジャパンCというローテーションは、もはや当然の選択ですらあった。このジャパンCがエアシャカールの運命の暗転・・・没落の始まりとなることを、この時点で果たして誰が予想できただろうか。

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