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エアシャカール列伝~みんな夢でありました~

『迫り来る影』

 武騎手が動いたのは、残り800m地点、大けやきの付近だった。最初は内につけていたはずのエアシャカールだったが、コーナーを回る際に外へと持ち出し、その勢いで一気に上がっていったのである。

 エアシャカールは、第4コーナーの直線入り口で既に中団まで押し上げ、進路も馬群の外をついたことで、他の馬に妨害されない状態を作り上げていた。あとは、エアシャカールの末脚がどこまで伸びるか、それだけだった。

 直線に入って間もなく、馬群はひとかたまりになったが、エアシャカールは好位から競馬を進めていたアタラクシア、ジョウテンブレーヴをとらえて先頭に立った。馬群の外から伸びゆくエアシャカールの末脚は、武騎手が、森師がレース前・・・否、弥生賞の時からイメージしていたとおりのものだった。そのまま2頭を突き放していくエアシャカールの姿に、森師、武騎手らが一貫して目標としてきた日本ダービー制覇は、もう目前に見えた。彼らはいずれもこの時、エアシャカールのリードがセーフティリードの領域に達したことを確信したという。

 ・・・だが、そんな彼らのさらに外から、エアシャカールに劣らぬ・・・否、彼に勝る末脚を繰り出す1騎の影が背後に迫っていた。その影は、関西を代表するベテラン騎手・河内洋騎手に導かれたアグネスフライトだった。

『立ちはだかるもの』

 アグネスフライトの血統は、父がエアシャカールと同じサンデーサイレンスであり、さらに母のアグネスフローラが桜花賞、祖母のアグネスレディーがオークスを制していることから、クラシックと縁の深い血統として、注目を集めていた。若葉S(OP)で原因不明の大敗を喫したことで皐月賞には出走できなかったが、その後若草S(OP)、京都新聞杯(Glll)を豪快な差し切りで制してダービーに駒を進め、この日は3番人気に支持されていた。そのアグネスフライトは、持ち前の末脚を生かすため、エアシャカールのさらに後ろから競馬を進めていた。

 アグネスフライトに騎乗する河内騎手は、1974年にデビューしてから27年、この時既に45歳になっていた。これまでダービーに16回挑戦し、1番人気にも3回騎乗のチャンスを得ながら一度も勝つことができなかったベテランは、

「これがラストチャンスかもしれない・・・」

とレース前に漏らし、背水の陣を敷いていた。武騎手が目指すものが前人未踏のダービー3連覇なら、河内騎手が目指すのは、デビューの日・・・否、騎手を志した少年の日より夢見てきたただひとつの栄光だった。

 アグネスフライトの気配を感じた武騎手は、すぐさま危険を察知した。脚色は、相手の方がいい。馬体を併せての叩き合いにしなければ、一気に差し切られてしまう・・・。武騎手は、それまで右に持っていた鞭をとっさに左に持ち替え、エアシャカールに左鞭を入れた。この時エアシャカールが右にササり、アグネスフライトと一瞬接触したが、彼らはいずれもひるむことなく、なんとかアグネスフライトと馬体を併せる形に持ち込んだ。

 ・・・あとは、理屈を越えたひたすらの叩き合いだった。最後の100mは、後続が離れていく中で、彼らの目・・・というより意識の中には、隣にいる馬1頭のことしかなかった。ゴール板の前を駆け抜けた時、2頭はまったく並んでいた。勝敗は、写真判定に持ち込まれた。

『夢破れて』

 写真判定の結果は、アグネスフライトのハナ差の差し切り勝ちだった。2頭の勝敗を分けたのは、わずか7cmの差だったという。2400mを走り抜けた彼らの間の、わずか7cmの差。しかし、その「24万分の7」の差こそが勝者と敗者を隔てた永遠の壁であり、勝負の世界の厳しさを物語るものだった。

 ちなみに、数値を図ると7cmの差だったが、当事者間は理屈ではなく本能で勝敗を察していたようである。ゴールを過ぎた後に右手を高々と天に掲げたのは、武騎手ではなく河内騎手だった。また、高らかに勝利宣言をしてはみたものの、その後自分が本当に勝ったのか不安になった河内騎手は、武騎手に

「勝ったかな?」

と聞いてみたというが、その時武騎手も、

「おめでとうございます・・・」

と返したとのことである。

 河内騎手、武騎手は、いずれも武田作十郎厩舎からデビューして武田師の教えを受けた兄弟弟子にあたる。武騎手にしてみれば、兄弟子が悲願を果たしたことは祝福すべきことであり、現に祝福してもいるのだが、ダービー3連覇の夢破れ、そしてエアシャカールをダービー馬にしてやることができなかったという事実には、無念さを禁じえなかった。

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