サクラローレル列伝 ~異端の王道~
1991年5月8日生。牡。栃栗毛。谷岡牧場(静内)産。
父Rainbow Quest、母ローラローラ(母父Saint Cyrien)。境勝太郎厩舎(美浦)。
通算成績は、22戦9勝(旧4-7歳時)。1996年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)、有馬記念(Gl)、オールカマー(Gll)、
中山記念(Gll)、 中山金杯(Glll)。
(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
『異端の名馬』
日本競馬の華ともいうべき中長距離戦線における最も典型的な「名馬像」とは、次のようなものだろう。
3歳(現表記2歳)時にデビューし、1戦目か、遅くとも2戦目までに勝ち上がる。4歳(現表記3歳)時には、皐月賞トライアルから皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞と続くクラシック戦線の主役を張ってファンに実力を認知させ、その後はジャパンC(国際Gl)か有馬記念(Gl)で、上の世代の強豪たちと対決する。5歳(現表記4歳)になってからは、天皇賞・春(Gl)に始まり有馬記念に終わる古馬中長距離Gl戦線を戦い抜き、上の世代、下の世代も含めた競馬界の中での決着をつけた上で、それまでの実績を手みやげに引退し、種牡馬入りする・・・。
今や中長距離戦線とは全く異なるレース体系を構築するに至った短距離戦線、ダート戦線はさておき、中長距離戦線の場合、一部の馬が大レースへの出走を制限されていた時代の馬でもない限り、「名馬」といわれる馬のほとんどがこうした道を歩んできた。ファンは、競馬界に確立されたそんな道のことを「王道」と呼ぶ。こうした道を外れれば外れるほど、その馬は「名馬」とは呼ばれにくくなっていく。
しかし、「王道」という価値観がまったく揺るがぬものと思われていた平成の世に、そうした常識に真っ向から挑戦状をたたきつけた1頭の名馬が現れた。それが、1996年のJRA年度代表馬・サクラローレルである。
サクラローレルの場合、多くの名馬たちの登竜門となるクラシック三冠では、その名を出馬表に連ねることすらなかった。また、いくら晩成といっても、いくらなんでも5歳(現表記4歳)になればGl戦線に台頭してくるものだが、サクラローレルは、その大切な1年のほとんどを故障で棒に振っている。彼がGl戦線に姿を見せるようになったのは、一般的な名馬は引退していても不思議ではない6歳(現表記5歳)になってからのことだった。
サクラローレルが6歳(現表記5歳)を迎えた1996年の年頭時点では、競馬界における彼の地位は「Glllを1勝した馬」にすぎなかった。だが、サクラローレルが華やかな光を浴びる檜舞台で輝きを放ち始めたのは、それから後のことである。慢性的な脚部不安ゆえに、出走するレースをかなり限定せざるを得なかった彼だが、レースを選びながらナリタブライアン、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった青史に名を残す選ばれし強敵たちと戦い、そして勝ち抜くことで、彼は自らの威名と評判を高めていった。そして彼は、ついに1996年のJRA年度代表馬に選出されたのである。
さらに、競馬界の頂点に立つと功成り名遂げて引退するケースが多いが、サクラローレルは違っていた。日本の頂点に立った彼が最後に目指したのは、中長距離戦線の名馬たちが夢見ながらも、現実には挑戦することさえ久しく絶えていた世界の頂点だった。今回は、平成の名馬としては異端ともいうべき戦いの軌跡をたどったサクラローレルをとりあげてみたい。
『欧州の名族』
サクラローレルの血統はもともと欧州の系統で、サクラローレルの母であるローラローラは、仏3歳王者Saint Cyrien産駒として、フランスで生まれた。フランスでのローラローラの戦績は6戦1勝であり、数字だけを見れば目立たない戦績だが、その中にはフランスオークスへの出走歴が含まれている。血統と将来性を現地でも高く評価されていたローラローラが早めに引退したのは、
「あまり走らせすぎて消耗させると、繁殖牝馬としての将来に悪影響があるから」
という理由だった。ちなみに、短期免許で何度も来日して日本でもおなじみとなっているフランスのトップジョッキーであるオリビエ・ペリエ騎手は、まだ騎手見習いだったころにローラローラにまたがらせてもらい、
「なんていい馬なんだ・・・」
と感動したことがあるという。
そんなローラローラは、まずフランスで繁殖入りし、現地に1頭の産駒を残した後に日本へと輸入された。その時ローラローラは、ヨーロッパを代表する名種牡馬の1頭として知られるレインボウクウェストとの間の子を宿していた。レインボウクウェストは、凱旋門賞(仏Gl)、コロネーションC(英Gl)優勝、愛ダービー2着等、欧州の格式あるクラシックディスタンスの大レースで活躍した強豪であり、種牡馬入りした後も、父として英国ダービー馬クウェストフォーフェイム、凱旋門賞父子二代制覇を成し遂げたソーマレズを輩出し、名種牡馬としての地位を確固たるものとしている。
やがて日本へ到着し、静内の名門牧場である谷岡牧場へと預けられたローラローラは、1991年5月8日、レインボウクウェストとの間の栃栗毛の牡馬を無事に産み落とした。その子馬が、後の年度代表馬サクラローレルである。
『夢を背負いて』
谷岡牧場は、これまで牝馬ながらに天皇賞と有馬記念を制したトウメイ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)を勝ったサクラチヨノオー、その弟で朝日杯3歳Sを勝ったサクラホクトオーといった多くの強豪を生産してきた。その谷岡牧場の人々も、ローラローラが日本で初めて出産する子馬には、熱い期待を寄せていた。
「この血統から、果たしてどんな子馬が生まれてくるんだろう・・・」
父、母の双方から欧州の名血を受け継ぐその血統は、日本での馴染みこそ薄いものの、世界的にも一流で通用するものだった。あとは、血統に恥じない子供が現実に生まれてくれるかどうか、の問題である。
固唾を呑んで出産の時を迎えた谷岡牧場の人々だが、彼らは、自分たちが見守る中で立ち上がったその子馬の姿に、思わず言葉を失った。欧州の名族の血を引くその子馬の立ち姿は、彼らが寄せていた過剰ともいうべき期待をまったく裏切らない・・・それどころか、それをも超えるものだった。
「こんなにきれいな馬は見たことがない」
「これは3年後が楽しみだ・・・」
それまでに何頭もの名馬の誕生に立ち会ってきた谷岡牧場の人々だったが、サクラローレルの素晴らしさに、思わずうならずにはいられなかった。
さらに、サクラローレルが生まれた日、美浦の調教師である境勝太郎調教師が谷岡牧場を訪れていたが、その境師も、サクラローレルを一目見るや、たちまちその虜となってしまった。境師は、その日のうちに、サクラローレルを自分の厩舎に入れるよう、話を決めてしまった。ローラローラは「サクラ軍団」の総帥・全演植氏の所有馬として輸入されており、その子馬も将来は「サクラ」の勝負服で走ることになっていたため、「サクラ軍団」の主戦調教師である境師が望めば、そのこと自体は簡単なことだった。
サクラローレルが生まれた1991年は、後から振り返れば、谷岡牧場産の「サクラ軍団」の馬の当たり年だった。この年の谷岡牧場では、サクラローレルだけでなく、皐月賞(Gl)で2着に入ったサクラスーパーオーや、弥生賞(Gll)を勝ったサクラエイコウオーが産声をあげている。しかし、当時のサクラローレルに対する期待感はこの2頭をはるかに凌駕しており、将来の「サクラ軍団」を背負って立つべき若駒として、周囲のすべてから将来を嘱望されていた。