TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > サクラローレル列伝 ~異端の王道~

サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『フランスへ』

 天皇賞・春を終えたサクラローレル陣営からは、やがて正式に秋の凱旋門賞(国際Gl)遠征が発表された。「天皇賞・春を勝ってロンシャンへ行く」という当初の目標こそ果たせなかったものの、敗れた競馬の内容は、決して悲観すべきものではなかった。むしろ、敗れたとはいえ強い競馬をしたことは、彼らの決断の後押しとなった。こうしてサクラローレルは、世界の最高峰、そして母の国で、世界最高のレースに挑むことになった。

 サクラローレル陣営から発表されたローテーションは、ロンシャン競馬場の芝に慣れるため、ステップレースのフォワ賞(Glll)を使い、その後凱旋門賞へ向かうというものだった。サクラローレルの海外遠征の知らせが駆け巡ると、競馬界には高揚感が交錯した。ファンだけではなく、彼の宿敵・マヤノトップガン陣営とマーベラスサンデー陣営も、サクラローレルに対し熱いエールを送った。

「ローレルには、日本代表として頑張ってほしい・・・」

 日本競馬界全体の熱い期待を受けて、サクラローレルのフランス遠征は確実に進展し、具体的なものとなっていった。・・・だが、競馬界がサクラローレルの壮行ムード一色に染まっていく中で、無念の涙を流した男がいた。・・・それは、96年以降サクラローレルの主戦騎手を務めてきた横山典弘騎手だった。

『別れの朝』

 小島騎手の引退を受け、96年の中山記念(Gll)からサクラローレルの手綱を取ってきた横山騎手は、その後6戦に騎乗し、4勝、2着1回、3着1回という成績を残してきた。96年天皇賞・秋では「最高に下手な騎乗をして」3着に敗れ、境師にマスコミの面前で叱責されたこともあったが、その借りは有馬記念で見事に返した。横山騎手は、ようやくサクラローレルの主戦騎手としての自信を持ちつつあった。凱旋門賞だろうとブリーダーズCだろうと、サクラローレルに騎乗する主戦騎手は、自分しかいない。・・・それは、サクラローレルと長い間戦いをともにしてきたことで、ようやく得られた確信だった。

 だが、小島騎手の思いは違っていた。横山騎手の騎乗がダメだということではない。しかし、世界で最も難しいロンシャン競馬場で行われる世界最高のレース・凱旋門賞に出走するということになると、日本での実績だけではなく海外経験も問題になってくる。

 ・・・最近は若手騎手が積極的に海外に遠征することも珍しくなくなってきたが、当時はまだ一般的ではなかった。横山騎手も、海外遠征の経験は乏しかった。

「海外に行くのは、日本で一番になってから」

 そんな思いが彼を海外遠征に消極的なものとしていたことも事実である。そんな彼が初めての海外遠征を決行したのは、その年の4月のことだった。「砂の女王」ホクトベガとともに臨んだ世界最高賞金の大レース・ドバイワールドC。そして・・・彼の初めての挑戦は、ホクトベガの横死という悲惨な結果とともに終わりを告げていた。

 だからこそ、横山騎手は、その悲劇から半年、再び巡り会ったチャンスに賭けていた。サクラローレルの凱旋門賞挑戦がまだ噂だったころから「鞍上には現地の一流騎手を起用する」という噂も流れていたが、横山騎手は信じなかった。・・・だが、海外遠征の発表会見の場で、小島騎手はヨーロッパで活躍する一流騎手に依頼することを明らかにした。一部では、横山騎手は、降ろされた。ある騎手は、横山騎手が大酒を飲みながら、こうつぶやいているのを聞いたという。

「競馬ってさ・・・いったい誰を信じればいいの」

 横山騎手への騎乗依頼がないことが確定した後のある朝、サクラローレルの担当厩務員で横山騎手とも親しい小島良太氏がサクラローレルの馬房に行くと、そこには

「良太とローレル、がんばれ!」

と書かれたカレンダーが残されていたという。・・・人知れずサクラローレルに別れを告げたのは、横山騎手なりのプライドだったのだろうか。

『SAKURA-LAUREL』

 サクラローレルの騎手は、やがて武騎手に決まった。ヨーロッパの一流騎手は、現地の馬たちで依頼が固まっており、極東の島国から割り込める状況ではなかった。武騎手ならば、国内での実績はもちろん、若いころから海外にも積極的に進出し、1994年にはスキーパラダイスで、ロンシャン競馬場のマイルGlのムーラン・ド・ロンシャン賞(国際Gl)を勝っており、実績としては申し分ない。

 サクラローレルが目指す凱旋門賞は、世界最高峰のレースにふさわしいメンバーが世界中から集結すると見られていた。前年の凱旋門賞を5馬身差で逃げ切り、連覇を狙うエリシオ、キングジョージ&Q.エリザベス2世S(国際Gl)を制したスウェイン、そして前年のブリーダーズCターフ(国際Gl)の覇者ピルサドスキー・・・。しかし、その中でも最有力視されていたのは、フランスダービー、パリ大賞典を圧勝し、オリビエ・ペリエ騎手が「エリシオ以上」と評する大物4歳馬パントルセレブルだった。

 そんな中でフランスの競馬ファン、マスコミは、極東の島国からやって来たという「SAKURA-LAUREL」は様子見・・・というのが標準的な態度だった。「日本の年度代表馬」という看板はあるものの、海外遠征はもちろん日本唯一の国際GlであるジャパンCへの出走歴すらないこの馬の名前を、彼らが知らなくても無理はなかった。

 しかし、彼らは「SAKURA-LAUREL」の名前は知らなくても、日本競馬のレベルが急速に上がりつつあることは知っていた。前年のジャパンCで欧州のGl戦線を荒らし回ったシングスピールとエリシオの間に割って入ったのは、日本で調教された4歳牝馬のファビラスラフインだった。サクラローレルは、有馬記念でそのファビラスラフインに競馬をさせていない。・・・一度実力を見せることで、サクラローレルの実力をフランス、そして世界に認めさせるだけの素地は、既に整っていた。

 サクラローレルが叩き台に選んだフォワ賞(仏Glll)は、ロンシャン競馬場の芝2400mコース、つまり凱旋門賞とまったく同じコースで行われる。そして、この年の出走馬に凱旋門賞で有力視される強豪はいない。世界最高のレースを目指し、世界に名の知れた強豪との対決を控えるサクラローレルがこんなところで負けるわけにはいかない。

 サクラローレルは、日本からの応援馬券だけでなく、地元ファンの未知への期待も吸収し、堂々の単勝1番人気に支持された。サクラローレルにとって、フォワ賞は凱旋門賞に向けた絶好の脚慣らしとなるはずだった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
TOPへ