サクラローレル列伝 ~異端の王道~
『ロンシャンに散る』
だが、そんなサクラローレルを待っていたのは、思いがけない結末だった。
サクラローレルは、この日は3、4番手からレースを進めた。最終コーナーでも3番手をキープするサクラローレルは、そこから末脚を伸ばし、勝ちパターンへと持ち込む・・・はずだった。相手関係からいえば、勝てないはずがなかった。
しかし、サクラローレルは、そこから伸びない。馬群の固まりから一気に突き抜けるはずの彼が、逆に失速すらしていく。これが、日本を代表してロンシャンへ挑んだサクラローレルなのか。
サクラローレルは、勝ち馬から遅れること3馬身半、8着で入線した。武騎手は、ゴールの手前で追うことをやめていた。勝者となったのは、皮肉なことに日本の有名な国際都市と同じ名前を持つヨコハマだった。8頭だての1番人気が8着に沈み、8番人気が1着を奪うという皮肉な結果に、現地のファンたちからは、容赦なく罵声やヤジが飛びかった。
そして、失意に沈むサクラローレル陣営を待っていたのは、さらなる悲報だった。武騎手は、レース後サクラローレルから下馬していた。そして、戻ってきたサクラローレルを診察した獣医は、右前屈腱不全断裂と診断した。・・・それが、母の国に帰った日本の年度代表馬を待っていた夢の終わりだった。
ちなみに、この獣医はフランス語で日本人スタッフに対し、ある許可をとろうとしていた。その場にいた日本人スタッフは、フランス語が分からなかったため、ただうなずいていたが、その彼を現実に引き戻したのは、
「馬鹿野郎、ローレルを殺す気か!」
という叫びだったという。・・・この時フランス人の獣医は、日本最強馬の種牡馬としての価値をまったく知らず、
「競走馬としてはもう使い物にならない。薬殺していいか」
と許可を求めていたのである。もしその場にフランス語を解する人物が1人もいなかったら、サクラローレルは再び日本の土を踏むことはなかったが、幸いにして彼は、死の淵から救い出された。
『旅の終わり』
サクラローレルの凱旋門賞挑戦は、前哨戦での突然の故障によって、実現しないまま終わった。サクラローレルは現役を引退し、現地で経過を観察した後に日本へ帰国することになった。
・・・サクラローレルは、凱旋門賞当日、まだフランスにいた。サクラローレルがいない凱旋門賞は、1番人気パントルセレブルが2着ピルサドスキーに5馬身差をつけ、1987年にトレンポリーノが記録したレコードタイムを1秒7更新する2分24秒6という驚異的なレコードタイムで圧勝した。「90年代最強の凱旋門賞馬」とも呼ばれる名馬の誕生の陰で、サクラローレルは、そのドラマに参加することさえできなかった。
ちなみに、サクラローレルが敗れたフォワ賞の出走馬のうち上位4頭は、すべて凱旋門賞に出走している。だが、その結果はフォワ賞4着のステュワードが14着に入ったのが最高で、上位3頭は16着、17着、18着の下位3頭を「独占」する結果になった。
サクラローレルの遠征の結末を知った境師は、
「なぜ太は蹄鉄師を連れて行かなかったんだ・・・」
と天を仰いだという。実際には、小島師もいつもサクラローレルの蹄鉄を打っている日本人の蹄鉄師を連れて行こうとしたが、蹄鉄師が断ったのか、現地での受け入れ態勢が整わなかったのか、実現しなかったようである。現地の蹄鉄師は、「競馬後進国」の関係者たちの指示をあまり聞かず、フランス流、自分流でサクラローレルの蹄鉄を打ってしまった。それで、急に蹄鉄が変わったため、もともと弱かったサクラローレルの脚が、一気に故障に至ったのではないか、という声もあるが、しょせんは仮説に過ぎない。現実にあるのは、日本最強馬が凱旋門賞にたどり着く前に、故障を発症して敗れ去ったという歴史的事実のみだった。
サクラローレルの敗北、そして引退の報は、競馬界に大きな衝撃と脱力感をもたらした。
「ローレルでもダメなのか・・・」
故障というアクシデントがあったとはいえ、負けは負けである。ファン、そして競馬関係者の落胆と失意は深かった。
サクラローレルの引退が決まった10日後、日本ではマヤノトップガンの引退が報じられた。京都大賞典(Gll)からの始動を目指しての調整中に、やはり屈腱炎を発症したのである。ひとつの時代を築いたライバルたちの相次ぐ引退は、変わりゆく時代を象徴していたのかもしれない。
シーキングザパールがモーリス・ド・ゲスト賞(国際Gl)、タイキシャトルがジャック・ル・マロワ賞(国際Gl)を相次いで勝ち、日本競馬界が歓喜に沸くのは、その約1年後のことである。
『誇り高き道』
サクラローレルは、帰国後12億円のシンジケートが組まれ種牡馬入りした。2001年にデビューした初年度産駒からは、なかなか勝ち馬が現れずファンや馬産地を心配させたが、その中からローマンエンパイアが京成杯(Glll)を勝った。その後も、アルゼンチン共和国杯(Gll)等の重賞を3勝したサクラセンチュリー、フローラS(Gll)を勝ったシンコールビー、ユニコーンS(Glll)を勝ったロングプライドなどを輩出したものの、父に並ぶような大物を出すことはなかった。もっとも、ブルードメアサイヤーとして帝王賞、川崎記念、JBCクラシック等を制したケイティブレイブを出したのは、もともと安定して走る子を出すよりも少数の大物を出す傾向がある血統らしい実績である。
サクラローレルというサラブレッドは、その戦績を振り返ってみても、多くの「名馬」と呼ばれたサラブレッドたちとは大きく異なる道をたどってきたことが分かる。デビューから引退までの約4年間という期間とは裏腹に、クラシックは未出走、5歳時も1年間を棒に振り、さらに本当の意味で一線級といえる成績を残した1996年の1年間でさえも、慢性的な脚部不安ゆえに出走レースを厳しく選ばざるを得ず、宝塚記念とジャパンCには出走しなかった。サクラローレルがその生涯で出走したGlは、わずかに4戦だけである。
しかし、サクラローレルが実際に残した足跡は、これらの事実では決して表現しきれないものである。競馬界の誰もが認める王道は歩めなかった彼だが、だからこそ彼は、他の馬たちが歩まなかった道を歩んだ。1996年はナリタブライアン、マヤノトップガン、マーベラスサンデーらを破ってJRA年度代表馬に輝き、7歳ながらに現役を続けた1997年の天皇賞・春では、サクラローレルを倒すことにすべてを賭けたマーベラスサンデー、そしてサクラローレルを無視することでサクラローレルを超えようとした最大にして最強のライバル・マヤノトップガンという強豪たちとの戦いの中で、競馬界にひとつの時代を築いた。彼の実績、そして年度代表馬として凱旋門賞に挑んだ勇気は、間違いなく本物だった。そんな彼が歩んだ道も、異端であったにしても、やはりひとつの王道だったのである。
近年、世界との実力の格差が縮まりつつあるとされる日本競馬では、一流馬の海外遠征も一般的なものとなりつつある。サクラローレルが目指して果たせなかった凱旋門賞の夢は、99年のエルコンドルパサー、2010年のナカヤマフェスタ、12年と13年のオルフェーブルの2着が最高で、いまだに制覇を果たせてはいない。しかし、2着が4回という実績は、決して椿事が重なったわけではなく、長い間国内に閉じこもっていた日本の一流馬たちがようやく世界に目を向け始め、少しずつ実績を積み重ねてきた歴史の大きな潮流に従っての歴史の必然である。
そんな中で、時代に先駆けて海外、それも凱旋門賞という誰もが認める世界の最高峰へと挑んだサクラローレルの挑戦は、高く評価されてしかるべきである。実際には、彼の凱旋門賞への夢は、本番にたどり着く前に消えた。すべてを捨てた彼の挑戦もまた、志半ばにして挫折した。だが、そんな挑戦の記録と記憶が日本競馬の歴史を動かしたことも、確かな事実である。そんなサクラローレルの王道は、異端なるがゆえに賞賛されるに値する。いつか本当の意味で日本競馬が世界に肩を並べた時、サクラローレルの挑戦は、日本競馬が新たな時代に至るために必要とした歴史の重要な1ページとして、後世に語り継がれることだろう。