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サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『忍従の日々』

 競走能力喪失の診断を受けたサラブレッドは、普通は現役を引退することになる。もう走れないサラブレッドに、競走馬としての価値はないからである。

 しかし、境師はサクラローレルのことを、どうしてもあきらめられなかった。あきらめるには、彼の冬以降の本格化の印象が鮮烈すぎた。不治の病とされる屈腱炎と違い、骨折であれば、時間さえ置けば、かならずくっつくはずである。骨がくっつきさえすれば、また走れるようになるはずだ・・・。そんな可能性に賭けた境師は、サクラローレルを引退させず、あくまでも復帰を目指すことに決めた。

 その後のサクラローレルとその周辺の苦心は、筆舌に尽くしがたいものとなった。獣医とて、安易に競走能力喪失の診断を下すはずがない。馬の場合、安静さえ保てば治るような骨折でも、馬が痛みに耐え切れず暴れ、結果的に死に至ることは珍しくない。まして、両前脚を同時に骨折し、競走能力喪失の診断を受けるほどの症状となればなおさらである。

 競走能力喪失・・・そんな十字架を背負い、復帰の可能性は薄いとされながら、サクラローレルはあてのない闘病生活を続けた。彼の季節は我慢と忍従の中で過ぎていった。春はもちろんのこと、「充実の5歳秋」といわれ、競走馬が最も充実するとされる秋も、彼は無為のうちに過ごさなければならなかった。生物としての野生を色濃く残すサラブレッドにとって、無為は何よりも難しい。だが、サクラローレルはそんな日々に耐えた。

『さらば、長き眠り』

 サクラローレル陣営に歓喜が戻ったのは、天皇賞・春直前の悲運の骨折から半年以上が経った後のことだった。

「骨がくっついたぞ!」

 判明時には元通りになることは絶望的と思われた骨折部分が、見事にくっついていた。最初は軽い運動から始め、やがて少しずつ強い調教をかけてみたが、馬が痛がる様子はない。その走りにも、徐々に故障前のような速さと力強さが戻ってきた。サラブレッドでありながらサラブレッドとしての野生に反する闘病生活に耐えたサクラローレルと、希望の見えない闘病生活の中でわずかな可能性に賭け、彼のために労苦をいとわなかったスタッフたちの長い戦いは、ついに報われたのである。

 境師は、サクラローレルの吉報を誰よりも喜んだ。境師は、翌1997年2月を最後に定年を迎え、調教師を引退することが決まっていた。1935年の騎手見習いとしてのデビュー以来、61年間を競馬に捧げてきた境師は、事実上集大成の1年となるこの年に賭けていた。その運命の年を前にしてサクラローレルという強力な逸材が復帰を果たしたのは、何よりも心強いことだった。

 境師は、年の初めに

「今年はうちの厩舎で重賞を10個勝つ!」

と高らかに宣言した。当時の重賞年間10勝といえば、グレード制導入後の新記録となる。境厩舎には多くの有力馬がいたとはいえ、この数字を達成するためには、重賞をいくつも勝ちまくる絶対的なエースが必要となる。そして、境師がそのエースに擬していたのは、復帰したばかりのサクラローレルだった。

『忘れられた馬』

 ほぼ1年ぶりに実戦に復帰するサクラローレルは、慎重を期すため、当初は脚への負担が軽いダート重賞を復帰戦にすることも検討された。結局ダート重賞への出走は幻に終わり、復帰戦は中山記念(Gl)に決まったが、それはサクラローレルにとって、故障前の最後のレースとなった目黒記念から、実に385日ぶりの実戦だった。

 サクラローレルが戦線を離れている間に、それまで彼の主戦騎手として手綱を取っていた小島騎手は、この年の2月で騎手を引退することになっていた。小島騎手に替わる新しい主戦騎手として白羽の矢を立てられたのは、岡部幸雄騎手、柴田政人騎手によって長らく独占されていた関東リーディングの地位を、1995年に初めて奪取したばかりの若きリーディングジョッキー・横山典弘騎手だった。

 新しい主戦騎手も決まり、あとは復帰戦を待つばかりとなったサクラローレルだったが、中山記念における彼への注目度は、非常に低いものだった。この日の出走馬を見ると、15頭の出走馬のうちGl馬勝ちの経歴を持つのは、1番人気のジェニュインただ1頭である。2番人気がナリタキングオー、3番人気はエーブアゲイン・・・という名前を並べていけば、出走馬の水準はある程度察することができる。だが、そんなメンバーの中ですら、サクラローレルの単勝オッズは上から9番目の1950円をつけていた。もっとも、横山騎手ですら追い切りの前日初めてこの馬に騎乗した時には

「それほどの手応えは感じなかった」

というから、仕方のないことではあったけれども。

 サクラローレルのそれまでを振り返ると、常に「未完の大器」として期待と注目を集める存在だったことは一貫している。クラシックロードを目指しながらも本番には出走すら果たせなかった4歳時、やはり天皇賞・春に向けて関東の上がり馬と言われながら、直前に骨折でリタイアし、1年を棒に振ってしまった5歳時。それまでの15戦にわたる戦績の中で、彼の単勝人気は3番人気、4番人気が各1度あるだけで、他はすべて1番人気か2番人気だった。

 だが、サクラローレルは、その才能を花開かせることができないまま、6歳春を迎えていた。95年の目黒記念から96年の中山記念に至る385日という時の流れは、サクラローレルを競馬ファンから忘れられた存在たらしめていたのである。

『復活の狼煙』

 おそらく、中山記念のゲートが開いてからしばらくの間、サクラローレルに注目していたファンはほとんどいなかっただろう。ウインドフィールズがハイペースで引っ張る流れの中で、サクラローレルは初騎乗の横山騎手との間でなかなか折り合いがつかなかった。後方で中途半端な競馬をしているように見えた彼らは、一度はずるずると最後方まで後退していった。

「レース勘が戻っていないのか・・・」

 もっとも、境師や横山騎手はともかく、ファンの中にそんなことを考えた者はほとんどいなかった。385日ぶりの実戦となる9番人気の馬が少々ちぐはぐな競馬をしたところで、不思議に思うファンなどめったにいない。サクラローレルへの注目度は、その程度のものだった。

 大多数のファンの視線は、サクラローレルが後退した時も、その後まくり気味に進出を開始した時も、彼ではなく1番人気のジェニュインの動きに集中していた。中団待機を決め込んでいたジェニュインは、直線に入ってからみるみる進出を開始した。堅い決着にありがちな展開であり、彼がいずれ先頭でゴールすることは確実に思われた。

 しかし、勝利を確信させたジェニュインに、外から一気に襲いかかる馬がいた。それが、サクラローレルだった。ファンは予期せぬ伏兵の存在に戸惑い、そして目の当たりにした末脚の鋭さに初めて衝撃を受けた。彼らの衝撃をよそに、サクラローレルはジェニュインとの差をみるみる詰め、並び、そして差し切った。サクラローレルとジェニュインの差が逆に1馬身4分の3まで開いた地点が、1年以上待ちわびた待望のゴールだった。

 中距離なら安定した実力を誇り、得意の条件で得意の勝ちパターンに持ち込んだジェニュインを、385日ぶりの実戦でいとも簡単に差し切ったサクラローレルの勝利は、まさに「奇跡」と呼ぶにふさわしいものだった。385日の休養明けでの優勝は、1988年に460日ぶりのオールカマー(Glll)で勝ったスズパレードに次ぐ、史上2番目の長期休養明け重賞制覇記録だった。

「自分の持っていた印象とはまったく違っていました。凄い馬です」

と横山騎手が語れば、元の主戦騎手で、調教師に転じてからは境厩舎付きの調教師となっていた小島師は、

「無事だったら、去年の天皇賞を勝ってたんだから」

と返した。彼らには、この時はっきりとその先のレース・・・「盾」が見えていた。この日彼らがつかんだ手応えは、ちょうど1年前、あまりに不本意な形で天皇賞・春を断念しなければならなかったサクラローレル陣営の人々すべてが待ち望んでいたものだった。

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