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ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~

 1998年4月19日生。2005年8月28日死亡。牡。鹿毛。信岡牧場(浦河)産。
 父ブライアンズタイム、母インターピレネー(母父サンキリコ)。山内研二厩舎(栗東)、
 宇都宮徳一(荒尾)、岡田一男(浦和)
 通算成績は、26戦6勝(新2-7歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、アーリントンC(Glll)、新潟大賞典(Glll)、ききょうS(OP)、野路菊(OP)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『宿命の終着駅』

 現存するサラブレッドの父系をたどると、いわゆる「三大始祖」・・・ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリータークの3頭に遡ることができることは、競馬ファンにとって長らく常識の範疇に属する基礎知識とされてきた。「サラブレッド」という種がこの世に存在しなかった古き時代から、「競馬」は存在していたようである。しかし、やがて天の与えたままの馬の姿だけでは満ち足りなくなった古人は、より速く走るために、より純粋に競走馬としての戦いに生きるために馬たちの品種改良を重ね、ついには「三大始祖」たちの血によって「サラブレッド」という究極の種を生み出した。

 サラブレッドとは、彼らの祖先とは異なり、競馬という目的のため、人の手でつくりだされた種である。そうであるがゆえに、彼らは自らの存在、そして生命そのものを、競馬という戦いに捧げる宿命にある。彼らに求められるものは、いつの時代も変わらない。レースに勝って、ウィナーズサークルに立つこと。その一点こそが、サラブレッドの存在する理由である。

 だが、彼らが自らの存在の理由を極めた時・・・競馬界の頂点に立った時、果たして彼ら自身は、何を思うのか。スタンドを埋めたファンの喝采を浴びながら、彼らは何に思いを馳せるのか。・・・おそらく、何も思いはしない。それらは、人ならぬ彼ら自身にとって、おそらく何の意味もないものである。彼らはなぜ戦うのか。それは、彼らがサラブレッドとして生まれたから。彼らは、ただ人のために走り、戦い、そして死んでゆく。それが彼らの現実であり、宿命である。

 2005年8月28日、1頭のサラブレッドが7年あまりの短い生涯を閉じた。ダンツフレーム・・・2002年の宝塚記念(Gl)を制し、同年の中央競馬における夏のグランプリホースとなった彼は、それ以外にも重賞を2勝し、また2001年の皐月賞(Gl)、東京優駿(Gl)、そして2002年の安田記念(Gl)で2着に入った強豪であった。彼の競走馬としての戦績は、人のために走り、戦うべきサラブレッドとして、なんら申し分のない戦績であった。

 そんな彼に罪があったとすれば、それは彼自身の血脈だった。彼を生み出した牝系・・・それは、急速に近代化する日本競馬の中では、もはや時代遅れとなりつつある異形の血脈だったのである。ダンツフレームは、誰もがうらやむ良血馬たち・・・アグネスタキオン、ジャングルポケットといった強豪たちと互角に戦い、やがて6度目の挑戦にして初めて悲願のGlを制した。だが、そんな彼を待っていたのは、生まれる時・・・否、それ以前から定まっていた血統ゆえの低い評価であり、過酷な運命だった。今回のサラブレッド列伝は、悲しい運命に翻弄され、やがて早すぎる終着駅を迎えてしまった1頭のサラブレッドに捧げる物語である。

『異形の血脈』

 ダンツフレームの生まれ故郷は、日本有数の馬産地である北海道・日高地方の中でも特に古くから馬産の中心となってきた浦河にある、信岡牧場である。この牧場の生産馬からは、かつて1981年の朝日杯3歳S勝ち馬ホクトフラッグ、95年の桜花賞馬ワンダーパヒュームなどが出ている。

 ダンツフレームの母インターピレネーが競走馬として残した戦績は、21戦3勝にすぎない。しかし、実際の彼女は数字の羅列から想像されるような一介の条件馬とは一線を画した存在であり、名牝ベガが輝いた93年の牝馬クラシック戦線に参戦し、4歳牝馬特別(Gll)で3着に入って桜花賞(Gl)にも出走している(9着)。

 インターピレネーの血統をみると、93年の中央競馬の血統水準の中ですら、一流とは言いがたいものだったことを否定できない。彼女の父であるサンキリコは、競走馬としても2歳時に英国のGll、Glllを合計3勝したという程度の実績しかなく、また種牡馬としても、関東オークスをはじめ南関東の牝馬限定重賞を中心に活躍したケーエフネプチューン、新潟3歳S(Glll)3着のワンダーピアリス、ガーネットS(OP)2着のユーフォリアなどを出した程度の存在に過ぎない。インターピレネーは、父の種牡馬成績を紹介する時には、重賞での入着という「実績」を持つという一点をもって、「代表産駒」に名を連ねられる資格を持っていた。

 それでも、引退後は信岡牧場で繁殖入りして1996年に初子を産んだインターピレネーは、その後も繁殖牝馬としての使命を順調にこなしていた。

 インターピレネーが97年春にマイニング産駒のマイニンハットを出産すると、信岡牧場の人々は、彼女をブライアンズタイムと交配することに決めた。種牡馬ブライアンズタイムといえば、既にナリタブライアン、マヤノトップガンという超大物を輩出し、同年のクラシック戦線にもサニーブライアン、ヒダカブライアン、エリモダンディー、シルクライトニングといった有力馬たちを大量に送り込み、種牡馬界にサンデーサイレンスの対抗勢力としての地位を確立しようとしていた。

 インターピレネーとの関係でいうならば、ブライアンズタイムとの交配は「不釣合い」にも見える。だが、信岡牧場はブライアンズタイムのシンジケート株を持っており、また自分の牧場の基礎牝系に属するインターピレネーに大きな期待をかけていた。彼女自身、繁殖入り直後に既に一度ブライアンズタイムと交配され、初子ゼンノペッパーを産んでいた。競走馬としては大成できなかったゼンノペッパーだが、馬っぷりは生まれながらにすばらしい馬だった。同じ父、同じ母を持つ全兄弟として、ぜひ兄を超える存在になってほしい。それが、信岡牧場の人々の切実な願いだった。

『インターピレネーの10』

 「インターピレネーの10」・・・後のダンツフレームが生まれたのは、翌98年4月19日のことである。「ブライアンズタイム最高の当たり年」と評された97年クラシック戦線の季節に、その活躍によって集まった牝馬たちから生まれたブライアンズタイム産駒たちの1頭・・・それが「インターピレネーの10」である。

 ところが、実際に生まれた「インターピレネーの10」は、信岡牧場の人々がひいき目に見ても、おせじにも走りそうな馬には見えなかった。

「決して見てくれのいい馬ではなかった。見た感じは、むしろボテッとした感じで・・・」

 「インターピレネーの10」の牧場での担当者は、当時の思い出をそう語っている。体型は美しくないし、日ごろの行いを見ても、

「いつもおとなしいというか、放牧地でみんなが走り回っていても、黙々と草ばかり食っているような子供だった」

というもので、とても競走馬としての未来を感じさせるような存在ではなく、むしろ

「食ってばかりでぶくぶく太っていた」
「牛みたいな馬だった」

などという評すら伝えられていた。「インターピレネーの10」、幼い日のダンツフレームは、一部の生まれながらの良血馬がそうであるような輝き・・・スター性とは、あまりにかけ離れた存在だった。

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