TOP >  年代別一覧 > 2000年代 > ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~

ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~

『2500万円の『牛』』

 このように、信岡牧場での評価は散々だった「インターピレネーの10」だが、それでも人気種牡馬・ブライアンズタイム産駒という看板の威力は大きく、1歳夏に日高のセレクト市場に上場された。

 しかし、いくらブライアンズタイム産駒でも、「インターピレネーの10」の体型はあまりに丸すぎた。信岡牧場の信岡幸則場長は、

「なんとかセリの前に、インターピレネーの10の見栄えを良くしよう」

と考え、馬体を絞ろうといろいろ工夫したというが、肝心の馬は何をやってもマイペースで草を食らうばかりだったため、効果はほとんどなかったという。

 セリ市で「インターピレネーの10」を見つめた山内研二調教師は、この時の彼・・・後のダンツフレームについて、

「馬主さんが買いたいといわなければ、私から勧めることはなかった」

と語っている。だが、彼を競り落としたのは、山内師が懇意にしている馬主で「ダンツ」の冠名を持つ山元哲二氏だった。それも、落札価格は2500万円で、同日のセリでは最高額タイとなる高額価格である。

 ダンツシアトルは、セリでの取引馬であったにもかかわらず、自称「日高の帝王」「馬界の帝王」としての予想でも人気を集めたとされるエージェント・富岡眞治氏の紹介案件ともされてきた。富岡氏がチアズグレイス、ダンツシリウスといった山元氏の代表的な所有馬たちの発掘にもかかわったとされてきたことからすれば、山元氏が数いる上場馬たちの中から「彼」を選んだ背景には、山内師よりも「馬界の帝王」の影響力が大きかったのかもしれない。

 何はともあれ、「インターピレネーの10」のことを評して「牛みたい」などと言っていた信岡牧場の人々は、思わぬ高額落札に胸をなでおろした。その一方で、外野からは

「あれは高い買い物になる・・・」

とささやく声も珍しくなかった。「インターピレネーの10」の競走馬としての船出は、決して平穏なものではなかったのである。

『焔を隠して』

 閑話休題。山元氏の所有馬となった「インターピレネーの10」は、正式に「ダンツフレーム」という競走名を与えられることになった。「フレーム」とは”flame”・・・炎ないし焔を意味する。また、これから転じて激情、情熱、そして恋人などの意味で用いられることもある。

 その名に「焔」を宿した競走馬・ダンツフレームは、前述の山内厩舎からデビューすることになった。山元氏と山内厩舎は、宝塚記念(Gl)馬ダンツシアトル、チューリップ賞(Glll)等で重賞2勝を挙げたダンツシリウスらを通じて、深い関係が構築されていた。山内師にとって「ぜひほしい馬ではなかった」というダンツフレームも、結局はそのパイプを通じて競走馬の世界に降り立つことになった。

 セリ市の時にダンツフレームのことをさほど評価していなかった山内師は、彼の成長を見た後も、

「うちの厩舎では中の上くらいの素材かな」
「ひとつやふたつは勝てるだろうが・・・」

などと言い続けた。実際にこの馬に乗った調教助手や騎手たちは口々に

「こいつは走りそうですよ」

と褒め称えたが、山内師はそれらの言葉を聞いても、彼の前にいるボテッとしていて見てくれも良くない馬がそれほどの逸材だとはどうしても信じられなかった。

 ダンツフレームの父・ブライアンズタイムは、彼自身が大種牡馬とは信じられないほどに背が低く、またずんぐりむっくりの体型である。また、種牡馬として出した代表産駒たちを見ても、父と同じ特徴を受け継いだ「見た目が良くない」馬が少なくない。その意味で、父とよく似た体型を持つダンツフレームが走ったとしても不思議はなかったのだが、山内師は、「見た目が競走成績に直結しない」というブライアンズタイム産駒の定理を完全に見落としていた。調教助手や騎手たちの賞賛を聞いた時の山内師の反応は、いつも

「ほんまかいな」

というものだった。ダンツフレームが内に秘めた焔を、山内師はデビュー前の段階ではまったく見抜けていなかったのである。

『見えない明日』

 ダンツフレームのデビュー戦は、2000年新馬戦の幕開けを告げる函館開催の開幕週・・・6月10日、土曜日の第5レースに設定された。

 山内厩舎といえば、もともと仕上げの早さと2歳戦での強さに定評がある。しかし、それを割り引いたとしても、彼のデビューは、後のGl馬のローテーションとしては早すぎる。そもそも、ダート1000mのレースという時点で、Gl馬の常識からは大きく逸脱している。その条件は、むしろ「厩舎の中で、中の上程度」・・・そんな山内師の評価を裏づけるものだった。

 とはいえ、このレースに勝ちさえすれば、「2000年最初の新馬勝ち」で格好はつくはずだった。しかし、単勝250円の1番人気に支持されたダンツフレームは、単勝600円の4番人気・マイネルジャパンにいち早く抜け出されると、直線でその差を詰めるどころか逆に突き放され、彼のデビュー戦は4馬身、0秒7差の2着という苦い結果に終わった。

 折り返しの新馬戦では勝ち上がったダンツフレームだったが、そのレースもやはりデビュー戦と同じダート1000mだった。「gallop」誌のレース短評は、この時ダンツフレームを

「体型からも、距離はマイルくらいまでこなせるはず」

と評している。母の父であるサンキリコは、2歳戦こそ5戦5勝だったものの、3歳時は一度も勝てずに引退したという背景もあり、当時のダンツフレームに対する世間の見方も、

「山内厩舎ならでは、母の父サンキリコならではの、仕上がりが早い馬」

という域を出ず、この時点の彼からそれ以上の何かを見出してはいなかった。

 種牡馬としてのブライアンズタイムは、「母の父スイフトスワロー」の二冠馬サニーブライアン、「母の父ハイセイコー」の朝日杯3歳S馬マイネルマックスを輩出していることからも分かるとおり、時に深遠な牝系から予想外の活躍馬を出すのも特色である。しかし、サラブレッド全体における牝系と種牡馬の関係からいえば、それらは僥倖に近い可能性でしかなく、短距離色の強い母系に重厚なブライアンズタイムの血を重ねたことで加わる厚みは、まだ海のものとも山のものとも知れなかった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
TOPへ