エアシャカール列伝~みんな夢でありました~
1997年2月26日生。2003年3月13日死亡。牡。黒鹿毛。社台ファーム(千歳)産。
父サンデーサイレンス、母アイドリームドアドリーム(母父Well Decorated)。森秀行厩舎(栗東)。
通算成績は、20戦4勝(新2-5歳時)。主な勝ち鞍は、皐月賞(Gl)、菊花賞(Gl)、ホープフルS(OPl)。
(本作では列伝馬が馬齢表記変更後も競走生活を続けていることから、新年齢(満年齢)を採用します)
『準三冠馬の悲劇』
牡馬クラシック戦線が競馬の花形になっている日本競馬において、皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞をすべて制した「三冠馬」は、そのクラシック戦線の頂点に立つ者として、単に強い馬という意味を超えた称賛を受ける。「三冠馬」は、三冠達成の困難さゆえに、すべての競馬ファンにとっての夢であり、憧れであり、また畏敬の対象ですらある。
クラシック中心主義の体系を創設当初から現在に至るまで貫く中央競馬の歴史は、多数の名馬たちと無数の無名馬たちによる、三冠への挑戦と挫折の歴史でもある。三冠達成の困難さを物語るように、中央競馬史上「三冠馬」は、全部で8頭しかいない(2021年末現在)。それ以外の多くの名馬たちが、三冠の夢に挑んでは敗れ、そして散っていった。そうした残酷な選別の過程を経るからこそ、勝ち残った三冠馬の栄光は、より強く、美しく輝く。三冠のロマンとは、わずか一握りの栄光と、それよりはるかに多くの挫折によって織り上げられた「物語」なのである。
そんな歴史の影の部分を象徴するのが、歴史上最も「三冠馬に近かった」二冠馬である。皐月賞、菊花賞という二冠を制しながら、三冠の中で最も価値が高いとされる日本ダービーで、勝ち馬に遅れることハナ差、わずか7cmの違いによって栄光をつかみ得なかった彼のことを、人は当初「準三冠馬」と呼んだ。その称号は、わずかの差で「三冠馬」と呼ばれる機会を永遠に失った彼への敬意を込めたものだった。
だが、そんな彼の栄光は、彼自身の凋落によってその価値を大きく傷つけられることになった。クラシック後の彼は、約2年間の競争生活の中で10戦しながら未勝利に終わった。しかも、彼と同世代でクラシック戦線を戦った馬たちも、古馬戦線で揃って大苦戦を強いられた。そのことによって、かつて「準三冠」という輝きに満ちた称号で呼ばれた彼の偉業に対する評価は地に堕ち、
「最弱世代に生まれたからこその快挙」
「生まれた時代に恵まれただけ」
と評されるようになり、ついには
「彼が三冠馬になっていたら、三冠馬の権威が崩れていた」
とまで侮られるようになっていった。クラシック戦線で「準三冠」を達成し、さらにはキングジョージ&Q.エリザベスS(国際Gl)にまで挑んだ輝きが色あせていくさまは、あまりに残酷なものだったと言わざるを得ない。そして彼は、そうした汚名を雪ぐいとまもないままに、まるでその栄光のすべてが、そして彼自身の馬生が夢だったかのように、短い馬生まで駆け抜けてしまったのである。
彼を生み出した戦場・・・それは、20世紀最後の、そして外国産馬開放前の最後の年となった2000年牡馬クラシックロードである。あの時代は、なんだったのだろうか。あの輝きは、なんだったのだろうか。20世紀最後のクラシック戦線の覇者は、やがてその栄光のすべてが夢であったかのように、「最も三冠に近づいた馬」から、「最弱世代の代表格」へと貶められていった。そんな彼・・・エアシャカールの存在は、中央競馬の歴史の中でも特異な存在である。今回は、2000年牡馬クラシック戦線の二冠馬でありながら、運命の流転の激しさに翻弄された悲劇の馬でもあるエアシャカールを取り上げてみたい。
『カタログ506番』
エアシャカールの生まれ故郷は、千歳の社台ファームである。社台ファームといえば、言わずと知れた日本最大の生産牧場であり、特にサンデーサイレンス導入以降の大レースでの実績は、他の牧場を完全に圧倒している。現在の社台ファームは、この牧場を一代で日本最大の牧場に育て上げた吉田善哉氏の死後、その息子たちによって3つに分割され、一族によるグループ牧場となっているが、先代からの名前をそのまま受け継ぐ社台ファームは、長男の吉田照哉氏が継いだものである。
エアシャカールの牝系は、照哉氏と非常に深い因縁で結ばれていた。彼らの縁は、実に1972年まで遡る。社台ファームは、当時米国にフォンテンブローファームという牧場を所有していたが、その当時現地に赴いて場長を務めていたのが照哉氏だった。そして、エアシャカールの曾祖母にあたるタバコトレイルは、そのフォンテンブローファームの繁殖牝馬であり、祖母のヒドゥントレイルはフォンテンブローファームで生まれた生産馬だったのである。
もっとも、照哉氏自身が配合を決めたというヒドゥントレイルは、脚が大きく曲がった「失敗作」だった。そのため照哉氏は、ヒドゥントレイルを「1万ドルか2万ドル」という捨て値でさっさと売り払ってしまった。そのうち社台ファームは、77年にフォンテンブローファームを手放し、照哉氏も日本へ呼び戻された。後に照哉氏が聞いたのは、案の定ヒドゥントレイルがレースに出走することもないまま繁殖入りしたという知らせだったが、照哉氏も数いる生産馬の1頭、それも「失敗作」のことをいつまでも気にしているわけにもいかず、そのうちにこの血統のことを忘れていった。
ところが、照哉氏はその後、何度もヒドゥントレイルの名前を聞かされることになった。照哉氏が日本へ戻った後になって、ヒドゥントレイルの子供たちが次々と走り始めたのである。ヒドゥントレイル産駒が次々と重賞、準重賞を勝った反面、ヒドゥントレイル以外に繁殖入りしたタバコトレイル産駒は、そのほとんどが失敗に終わった。照哉氏は、「失敗作」の子供たちが結果を残したことに、馬づくりの難しさを痛感せずにはいられなかった。・・・そんな照哉氏が93年に出かけたアメリカの競り市に、ヒドゥントレイルの娘であるアイドリームドアドリームが上場されたのである。
カタログに「№506」と記されたアイドリームドアドリームは、自身の競走成績こそ22戦2勝とそう目立ったものではなかったものの、その兄弟からは多くの活躍馬が出ていた。ちなみに、「アイドリームドアドリーム」という馬名は、意訳すれば「夢破れて」というもので、歌劇「レ・ミゼラブル」内の歌曲に由来するといわれている。この歌は、夢破れ、仕事を失い、男にも逃げられた不幸な女性が、自らの境遇を悲しんで歌うその名のとおり、寂しい歌である。
照哉氏は、ヒドゥントレイル、タバコトレイルの血統への思いもあって、彼女を買うことにした。彼女に対する注目度はそう高くなく、価格も大きくつり上がることもないまま、6万3000ドルで落札することができた。こうしてヒドゥントレイルの血統は、約20年の時を経て、再び照哉氏のもとへと戻ってきた。
『一番星』
アイドリームドアドリームが社台ファームにやってきて最初に生んだ牝馬(父マジェスティックライト)は早世したものの、次に生まれたエアデジャヴー(父ノーザンテースト)は1998年の牝馬クラシック戦線を沸かせ、クイーンS(Glll)優勝、オークス(Gl)2着、桜花賞(Gl)、秋華賞 (Gl)3着といった戦績を残した。エアシャカールは、そのエアデジャヴーの2歳下の半弟にあたる。
出生当時、エアシャカールの血統に対する評価は、決して他の馬たちより優れていたわけではなかった。生まれて3週間ほど後に森秀行調教師が社台ファームを訪れた際、エアシャカールのことが気に入って自分の厩舎に入れるよう懇願したが、姉のエアデジャヴーは伊藤正徳厩舎に所属することが決まっていたにもかかわらず、エアシャカールの森厩舎入りはあっさりと決まった。当時の競馬界では、初子を管理した調教師がその弟、妹も管理することが多く、アイドリームドアドリームの子どもたちについても、エアシャカールの1歳下、2歳下の弟たちは伊藤正厩舎に入厩している。そこのことからすれば、もしエアデジャヴーのデビューがあと1年早く、エアシャカールのデビュー時に彼女が実績を残していたとすれば、エアシャカールが森厩舎に入ることはなかったかもしれない。この事実は、デビュー前の彼に対する伊藤正厩舎の評価がそれほどのものではなかったことを物語っている。
エアシャカールへの評価が高まり始めたのは、ある程度本格的に運動を始めた後のことだった。このころには、姉のエアデジャヴーもデビューして実績をあげたことから、「母アイドリームドアドリーム」の血統も注目されるようになっていた。社台ファームの生産馬における彼の同期にはアグネスフライト、フサイチゼノンらもいたが、運動の様子に対する牧場の評価では、エアシャカールが世代ナンバーワンだった。
『不良少年と呼ばれて』
やがて森厩舎へと入厩したエアシャカールは、いったん「エアスクデット」という馬名で登録されながら、その後エアシャカールに馬名変更されるという珍しい経験も経ながら、いよいよ競走馬としての生活を始めた。
入厩したばかりのころのエアシャカールは、確かに走らせてみると能力では桁外れのものを持っていた。めちゃくちゃなフォームで走っても、他の馬たちに平気でついていく。いったん加速がついた時のスピードも、並みのものではない。・・・だが、それよりもむしろ目立ったのは、あまりにも激しく、どうにも御しがたい気性の激しさだった。
森厩舎でも、事前にエアシャカールがかなり気性の激しい馬であるということは聞いていた。だが、実際の彼の気性は、厩舎のスタッフの想像をはるかに超えるものだった。馬場でも厩舎の中でも、場所にかまわず暴れ回る。機嫌を損ねると、人を乗せているのに尻っぱねをして振り落とそうとする。また、走っている時には手綱で止まらせようとしても、ひたすらに走り続けるため、乗り役が下りることができない。挙句の果てには、彼は4本脚のままでジャンプするという馬らしからぬ技まで持っていた。
そんなエアシャカールだから、実際に乗るとなると、危なくて仕方がなかった。森厩舎の調教助手たちは、エアシャカールの気性にほとほと手を焼き、毎朝くじ引きで誰が乗るかを決めるようにしたほどだった。