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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

 1990年6月10日生。2020年4月13日死亡。牡。鹿毛。川上悦夫牧場(新冠)産。
 父リヴリア、母タイシンリリイ(母父ラディガ)。大久保正陽厩舎(栗東)
 通算成績は、15戦4勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、皐月賞(Gl)、目黒記念(Glll)、
 ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『鬼脚』

 競馬界には、直線での迫力ある末脚のことを指す「鬼脚」(おにあし)という言葉がある。言葉の由来は読んで字のごとき「鬼のような脚」ということになろうが、この言葉は、逃げ馬や先行馬が直線でさらに脚を伸ばす場合に使用されることはほとんどなく、中団よりさらに後方からの差し、追い込みが決まった時に使用されることが多い。

 一般的に、後方からの競馬は、自分でペースを作れない上、勝負どころで前が壁になって閉じ込められる可能性があるため、好位からの競馬に比べて不利であるとされている。個々のレースに限れば、強豪たちが単発の作戦、あるいは展開のアヤによって後方からの競馬をすることはあるし、彼らがそうしたレースで「鬼脚」を見せて勝つこともある。しかし、そんな勝ちっぷりが彼ら自身のイメージとなるまでには、そうしたレースをいくつも積み重ねて実績を残さなければならない。最も不利な作戦で、誰もが認める成績を残す・・・そんな馬は滅多にいないというのが現実である。「追い込みの名馬」の代表格としてまず名前が挙がるのは1983年の三冠馬ミスターシービーだが、その彼ですら、第4コーナーで10番手以下の位置にいて勝ったのは、皐月賞と天皇賞・秋の2度しかない。スタート直後は最後方にいても、第3コーナーかその手前から進出を開始するミスターシービーの競馬は、純然たる直線勝負の追い込みというよりは、いわゆる「まくり」に近いものである。

 だが、1993年牡馬クラシック戦線において、それほどに厳しい直線での追い込みを武器としてライバルたちに挑み、ついには「平成新三強」と呼ばれるまでに成長した稀有な強豪が現れた。その馬・・・ナリタタイシンは、いつも馬群の後方につけながら直線での追い込みに賭け、「鬼脚」のなんたるかを常に証明し続けた。直線で、掛け値無しに最後方から飛んでくる追い込みこそが彼の唯一無二の武器であり、420kg前後の細身の身体から繰り出される瞬発力は、まさに「鬼脚」という形容がよく似合うものだった。

 ナリタタイシン・・・閃光のような末脚でファンを魅了した第53代皐月賞馬は、果たしてどのようなサラブレッドだったのだろうか。

『名牝の血脈』

 ナリタタイシンは、1990年6月10日、新冠の川上悦夫牧場で生まれた。彼の血統は、父が米国のGlを3勝したリヴリア、母が日本で走って25戦1勝の戦績を残したタイシンリリィというものだった。

 リヴリアは、仏米で通算41戦9勝の戦績を残し、ハリウッド招待ハンデ(米Gl)、サンルイレイS(米Gl)、カールトン・F・ハンデ(米Gl)を勝っている。もっとも、リヴリアの最大の特徴は、これら彼自身の実績ではなく、その血統にあった。リヴリアの母は、キングジョージⅥ世&Q.エリザベスll世S連覇をはじめGl通算11勝という輝かしい戦績を残した歴史的名牝Dahliaだったのである。

 リヴリアは、

「Dahliaの子が欲しかった」

という早田牧場新冠支場の早田光一郎氏によって、引退後すぐに日本へと輸入されることになった。・・・もっとも、早田氏がこの時狙っていたのは、Dahlia産駒はDahlia産駒でも、リヴリアの半兄にあたるダハールだったという。ダハールの輸入交渉は値段の折り合いがつかずに決裂したが、そんな時にちょうど競走生活の末期を迎え、凡走を続けていたのがリヴリアだった。早田氏は、リヴリアについて

「僕が行った時に大差のどん尻負けなんかしちゃって、それで予想より安く買えた」

と語っている。

『期待をその身に受けて』

 だが、そんなリヴリアに対して独自の視点から注目を寄せていたのが、早田氏と親しく、また独自の血統論を持つ生産者として馬産地で定評がある川上悦夫氏だった。

「Ribotの癇性とRivermanのスピードがはまれば面白いかも・・・」

 彼が目をつけたのは、自分の好きなRibot系の繁殖牝馬と、リヴリアが持つRivermanの血だった。

 川上氏は、母系としてのRibotの血をもともと高く評価していた。彼は、親交があった千葉の東牧場から繁殖牝馬を譲ってもらえることになった際に、Ribotの直系の孫にあたるラディガの肌馬を、3頭も譲り受けたほどだった。ナリタタイシンの母であるタイシンリリィも、その時に川上氏が東牧場から譲り受けた繁殖牝馬の1頭であり、1980年のオークス馬ケイキロクとは従姉妹同士にあたる良血馬だった。

 タイシンリリィは、競走成績こそ25戦1勝というものだったが、川上氏は、多くの活躍馬を輩出する牝系の活力、そして自らが信奉するRibotの血が持つ底力に、ひそかに期待をかけていた。やがて、タイシンリリィが東牧場に残してきた娘のユーセイフェアリーがデビューし、阪神牝馬特別(Glll)優勝をはじめ32戦5勝の成績を残すと、彼女にかかる期待はより大きなものとなっていった。

 タイシンリリィは、川上悦夫牧場にやって来てからも走る産駒を出し続け、川上氏の相馬眼が間違っていなかったことを証明した。タイシンリリィの2番子ドーバーシチー、3番子リリースマイルとも、中央競馬で3勝を挙げている。日本でデビューするサラブレッドのうち、中央競馬でデビューするのは4割程度で、1勝を挙げることができるのは、その中でも半分程度という現実の中では、タイシンリリィが残した繁殖成績は目を見張るものだった。

 川上氏は、自分の牧場の中でも屈指の繁殖牝馬となりつつあったタイシンリリィを、供用初年度のリヴリアと交配することにした。最初はなかなか受胎せず、種付けに何度も通うはめになったタイシンリリィだったが、最終的には無事にリヴリアとの子を受胎した。それが、後の皐月賞馬ナリタタイシンである。

 ちなみに、リヴリアのシンジケートの株を持っていた川上氏は、この春にタイシンリリィのほかにもう1頭の繁殖牝馬をリヴリアと交配した。そして翌年、同じ1993年に川上悦夫牧場で生まれた2頭のリヴリア産駒は、ナリタタイシンが皐月賞馬となっただけでなく、もう1頭のマイヨジョンヌも新潟大賞典(Glll)連覇をはじめとして重賞を3勝することになる。だが、神ならぬ川上氏は、リヴリアが種牡馬として収める成功、そしてその後に待っている運命を、まだ知る由もない。

『野性児、大地に立つ』

 翌春、タイシンリリィは出産予定日を過ぎたにも関わらず、いっこうに出産の気配はないままだった。3月から5月にかけて出産シーズンを迎える生産牧場では、この時期はぴりぴりした緊張感に包まれる。しかし、6月に入っても生まれる気配すらないというなら、話は変わってくる。緊張があまり長く続くとどうしても気が抜けてしまうし、そもそも出産の気配すらないのだから、何か手を打つこともできない。

 タイシンリリィには、1993年6月10日の朝も、何の異常も見られなかった。そこで彼女は、この日もいつもどおりに牧場の牧草地に放牧されていた。そして、昼過ぎのこと・・・

「できちゃってるよー!」

 牧場の従業員が思わずあげた大声に、川上氏たちは放牧地へと集まってきた。・・・朝は1頭だったはずのタイシンリリィのそばに、1頭の見慣れない子馬がいた。タイシンリリィは、人間の手を借りないままに、放牧地で子馬を生んでしまったのである。・・・それが、ナリタタイシンの誕生だった。

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