ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~
『激戦の鼓動』
皐月賞当日、ナリタタイシンはウイニングチケット、ビワハヤヒデに次ぐ単勝3番人気に支持された。・・・とはいっても、彼の単勝オッズは200円のウイニングチケット、350円のビワハヤヒデからはかなり離された920円にすぎない。ナリタタイシンは、前走の弥生賞で得意な後方一気のパターンに持ち込みながら、そのさらに後ろからウイニングチケットに差し切られて敗れている。そんな関係もあって、特にウイニングチケットとの関係では、既に勝負付けが終わっているかのような印象すら持たれていた。
だが、ナリタタイシンの関係者たちは、「二強」という風潮に対して敢然と異議を唱えていた。まず、ナリタタイシンを担当していた大久保雅稔調教助手は、レースの前日に
「二強、二強と騒いでいるようだけど、そんなに差はないと思うよ」
と記者に語っている。また、ナリタタイシンに騎乗する武騎手も、弥生賞の敗戦の中から確かな手応えを感じ取り、それをレースに生かすべく秘策を練っていた。いい末脚を長く使う、という点ではウイニングチケットに劣るナリタタイシンだが、末脚を使う局面を一瞬に絞れば、その破壊力はウイニングチケットを上回る。武騎手は、弥生賞でナリタタイシンがウイニングチケットに敗れたのは、ウイニングチケットの後方からの追い上げに対して焦った自分が、ウイニングチケットとほぼ同時に追い出したからだと考えた。弥生賞とは、同じ轍を踏まない・・・それが、武騎手の皐月賞を前にした決意であり、基本戦略だった。
皐月賞のゲートが開くと、ナリタタイシンの位置取りに、スタンドはどよめいた。すぐに手綱を抑えた武騎手の手綱によって、ナリタタイシンの位置は、18頭立て18番目の最後方にとどまっているではないか。
ナリタタイシンの前に立ちはだかる強豪はというと、ビワハヤヒデはいつものように好位にとりついていた。弥生賞でのレース内容から、最後方につけるとしたらこの馬と思われていたウイニングチケットさえも、中団につけていた。そんな中でのナリタタイシンの最後方という位置取りは、ファンには奇異な印象を与えるものだった。ましてナリタタイシンは、弥生賞でのウイニングチケットとの瞬発力勝負に屈している。
「豊は何を考えているんだ?」
「ミスじゃないのか?」
そんな声があがるのも、無理からぬことだった。
『新しい絆』
だが、武騎手は、ナリタタイシンという馬が、道中に脚をためればためるほど最後の瞬発力につながるタイプだと確信していた。弥生賞での競馬すら、後から思えば中途半端だった。この馬の競馬は、一瞬だけ繰り出すことができる豪脚を信じて、どこまで道中を我慢できるか、それだけ・・・。武騎手は、ナリタタイシンの伝家の宝刀を抜く最後の一瞬のために、道中は最後方のまま、ナリタタイシンの末脚を研ぎ澄ましに研ぎ澄まそうと腹を決めていたのである。
「最後方に、ただひとつ」という極端な作戦は、3番人気に支持される馬ともなれば、そうそうできるものではない。レースが予想外の流れになった場合は、好位や中団につけてのレースの方が対応しやすく、不利を受ける危険も小さい。また、敗れたとしても「オーソドックスな競馬をして負けたのだから、仕方がない」という言い訳が立つ。だが、皐月賞という大一番で最後方からのレースをすることになると、思わぬ不利を受けても不思議ではないし、大敗でもしようものなら「ヘンな乗り方をするからだ」と叩かれることは、目に見えている。
武騎手は、それでも最後方からの追い込みに賭けた。
「ナリタタイシンには、この競馬が一番いい。ちょっとの不利なら、この馬が地力で何とかしてくれる・・・」
それは、彼が清水騎手から託されたナリタタイシンという馬を理解したからこその選択であり、馬との間に清水騎手から受け継いだものではなく、彼自身の新しい絆をつくりあげたことの証だった。
『それぞれの戦い』
このように、最後方待機という思い切った乗り方でファンを驚かせたナリタタイシンと武騎手だったが、1番人気のウイニングチケットと柴田政人騎手による中団からの競馬も、ナリタタイシンとは違った意味での思い切った競馬だった。それまでの勝ちパターンであり、前哨戦の弥生賞でもズバリと決まった後方待機を採らなかったのは、皐月賞を勝つための柴田騎手の賭けにほかならなかった。
柴田騎手が恐れたのは、常に好位から競馬を進めることができ、絶対的な安定感を誇っているビワハヤヒデだった。後方一気の追い込みは、はまれば派手だし、観衆も喜ぶ。・・・問題は「はまる」かどうかである。弥生賞では積極策をとる馬がいたおかげで、ウイニングチケットの追い込みがズバリとはまった。だが、この日は有力馬が後方だけに固まらず、好位からどっしりと競馬を進められる有力馬・ビワハヤヒデがいる。力に劣る馬による玉砕的な逃げもない中で、展開任せの追い込みでは、他の馬ならともかく、ビワハヤヒデをとらえることはできない・・・。
ウイニングチケットの警戒を一身に集めていたビワハヤヒデは、スタートから無理なく競馬を進めていた。岡部騎手は、この大舞台でもビワハヤヒデの競馬・・・先行して第3コーナーあたりから他の馬を押しのけて進出する「横綱競馬」に徹していた。予想どおりといえば予想どおりだが、それはビワハヤヒデ陣営の確固たる信念、小細工無しの王道を歩もうという強い意思を表すものでもある。
ナリタタイシン、ウイニングチケット、ビワハヤヒデ・・・。1993年牡馬クラシックロードの主役となる彼らは、第53回皐月賞・・・この年の牡馬クラシックロードの第一関門で、それぞれの思いのもとに、ただひとつの栄冠を目指していた。その戦いの果てがどこにあるのかを、彼らはまだ知る由もない。
『誤算』
18頭の出走馬たちがそれぞれの競馬を進め、レースが大詰めを迎えた直線の入口で、岡部騎手は確信したという。
「自分のペースで走れた。勝てる!」
ビワハヤヒデは、3頭の有力馬の中では最も前にいた。逃げていたアンバーライオンに、もう余力はない。周囲の先行馬たちを見ても、十分手応えがあるビワハヤヒデに勝るとは思えなかった。後方からは、ビワハヤヒデの動きを見越していつもより早めに動いたウイニングチケットが迫る気配も感じていたが、岡部騎手に伝わってくるビワハヤヒデの手応えは、百戦錬磨の名手をして後ろからどんな末脚を繰り出してきても差されることはないと思わせるものだった。
・・・このころ、ナリタタイシンはまだ後方にいた。第3コーナー過ぎにようやく最後方から進出を開始したナリタタイシンだったが、第4コーナーから直線入口にかけての彼は、まだ12、3番手の位置にいた。
しかも、武騎手は、この時ひとつのミスをしていた。内を衝くか外に持ち出すか迷った武騎手は、先に行くビワハヤヒデとウイニングチケットが外に持ち出したのを見て、
「前の2頭と同じことをしていては、勝てない!」
と内を衝いた。・・・だが、武騎手がナリタタイシンを内に突っ込ませたその時、彼の周りの馬群が大きく乱れた。オークス馬シャダイアイバーを母に持つ大器として穴人気となっていたガレオンが斜行し、馬群の中団に混乱が生じたのである。
ナリタタイシンの進路は、馬群の混乱によって他の馬によって突然ふさがれてしまった。さらに、彼の小さな身体も他の馬と接触し、内から外へと弾き飛ばされる形となってしまった。序盤から万全の競馬を進めたビワハヤヒデ、そのビワハヤヒデに勝つための競馬に徹してきたウイニングチケットと比べて、ナリタタイシンがここで受けた不利は、あまりにも大きいように思われた。