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エアシャカール列伝~みんな夢でありました~

『いまだ来ぬ夜明け』

 エアシャカールの菊花賞制覇から1年2ヶ月、2002年に入った後のエアシャカールの立場は、もはや大きく変わっていた。1歳上の世代の雄であるテイエムオペラオー、メイショウドトウの引退によって、競馬界の時代は大きく動きつつあった。そして・・・エアシャカールは、新たに構築されつつある競馬界の新秩序の流れから、完全に取り残されていた。

 エアシャカールは、前年に続いて産経大阪杯(Gll)から始動することになった。天皇賞・春に向けて「三強」といわれていた3頭のうちナリタトップロードとジャングルポケットは阪神大賞典(Gll)、マンハッタンカフェは日経賞(Gll)を選んだことから、産経大阪杯はGl馬がエアシャカールだけという手薄なメンバーとなっていた。

 ところが、ここでの二冠馬に対する評価は、単勝440円の3番人気にすぎなかった。重賞未勝利で、前走の大阪城S(OP)を快勝したサンライズペガサス、2000年にGllを2勝し、前走の京都記念(Gll)で2着だったマチカネキンノホシに劣る扱いの二冠馬・・・それが2002年のエアシャカールの現実だった。

 タマモヒビキの先導でレースはよどみなく流れたが、エアシャカールは好位から競馬を進めた。相手がこのメンバーならば、二冠馬は力で押し切れるはずだったし、また押し切らなければならなかった。やがて、縦長の展開から前後の差が詰まってくると、エアシャカールも次第に先頭との差を詰めていった。直線入り口でもこの日の定位置の4番手をキープしていたエアシャカールは、やがてそんな位置取りの利を生かして仕掛けていった。

 だが、一瞬の切れ味を持たないエアシャカールが馬群を抜け出すのに手間取っているうちに、大外からはもう1頭、ものすごい切れ味の末脚を使った馬が抜け出していった。瞬発力勝負に賭けていたサンライズペガサスが、エアシャカールも含めた馬群を置き去りにして、ひとあしお先に突き抜けてしまったのである。エアシャカールもサンライズペガサスに少し遅れて馬群を抜け出したものの、上がり3ハロン33秒8の豪脚を炸裂させたサンライズペガサスには引き離される一方で、結局2馬身半差の完敗を喫した。

 エアシャカールは、これで産経大阪杯は2年続けて2着という結果となった。ちなみに、勝ったサンライズペガサスに騎乗していたのは、前年トーホウドリームに騎乗していた安藤勝己騎手である。エアシャカールは、2年続けて「アンカツマジック」にしてやられる形となってしまった。長い夜に迷い込んだエアシャカールに夜明けの兆しはいまだ見られず、関係者の苦悩ばかりが深まっていった。

『ただひとつの勝利を』

 産経大阪杯の後は天皇賞・春への出走を予定していたエアシャカールだったが、「距離適性を考慮してシンガポール国際C(国際Gl)に出走する」として、これを回避するとされた。ところが、エアシャカールはその後シンガポール国際Cも回避して、金鯱賞(Gll)を使うことになった。

 もともと、エアシャカールの天皇賞・春回避の理由が「距離適性」とされていたことについては、

「3000mの菊花賞を勝っているのに3200mの天皇賞・春を距離適性がないというのはおかしい」

という批判があった。それでもそうした批判が大勢となるまでには至らなかったのは、当時日本競馬界でブームを巻き起こしていた海外遠征という大義名分にみな納得していたという側面があった。ところが、その大義名分だった海外遠征を中止してしまったのでは、何のための天皇賞・春回避だったのかという疑問と批判を免れない。エアシャカールの転々としたローテーションは、ファンの目からはあまりにも分かりにくいもので、

「マンハッタンカフェ、ジャングルポケット、ナリタトップロードから逃げただけでなく、シンガポールからも逃げ出した」

という声が挙がるのもやむを得ないことだった。

 このように、エアシャカールの臨戦過程は厳しい目でみられていたが、なればこそ、エアシャカールは金鯱賞を勝たなければならなかった。出走馬を見ても、エアシャカール以外にGl馬は出走しない。Glll級、あるいはそれ以下の馬たちが並ぶ金鯱賞で、忘れかけた勝利の味を思い出したかった。

 エアシャカール陣営の勝利への執念を物語るように、鞍上には2000年のジャパンC以来ほぼ1年半ぶりに、武騎手が復帰することになった。あらゆる条件が揃い、単勝180円の断然人気に応えることは、二冠馬の義務ともいえた。

『刹那の光明』

 金鯱賞のエアシャカールの競馬は、圧倒的1番人気を背負った二冠馬にふさわしいものと思われた。エアシャカールの後方待機は前半だけで、第3コーナー手前からは、火がついたように進出を開始する。大外を回りながら、なおかつぐいぐいとその位置を上げていく様子は、エアシャカールが輝いていたあの頃、クラシック戦線での競馬を髣髴とさせるものだった。

 勢いをつけたエアシャカールは、第4コーナーでは早くも3、4番手まで進出していた。だが、その勢いは止まりそうにない。

「やはり豊が帰ってくれば」
「さすがは二冠馬」

 エアシャカールの動向に目をひきつけられたファンは、この時ようやく二冠馬が復活しつつあると感じとっていた。1年半もの間の風雪に耐え、格下の馬に負け続けながらも臥薪嘗胆、復活への思いを新たにし続けたエアシャカールの努力と思いが、ついに報われつつあるかとも思われた。・・・だが、彼らはエアシャカールの背後に、道中ずっと彼をマークし、第3コーナー以降のまくりの際にも同じ末脚で上がってくるもう1頭の姿があることを見落としていた。

 エアシャカールは、直線に入って間もなくアサカディフィートをかわし、早めに先頭に立った。しかし、そんな彼の外側、後ろから追い込んでくる馬がいる。同じ左回りということもあって、まるで、ダービーの時のアグネスフライトを思わせるその追い込みの主の名は、ツルマルボーイといった。

『哀しい真実』

 先頭に立ったエアシャカールに外から並びかけ、そしてかわそうとするツルマルボーイの末脚は、まさにダービーでのアグネスフライトの強襲の再現だった。エアシャカールが馬体を併せる際に、焦って外によれてしまった点までよく似ている。・・・違うのは、ダービーではエアシャカールとアグネスフライトはほとんど並んだままゴールしたが、この日は2頭並んでからの脚色もツルマルボーイが上回り、エアシャカールを並ぶ間もなく差し切ってしまったことだった。結局エアシャカールは1馬身半差で、またもや2着に敗れてしまった。

「豊でもダメなのか・・・」

 森師ら、そしてファンの衝撃は大きかった。ツルマルボーイは、中京記念(Glll)に続いてこの日でやっと重賞2勝目である。小回りの左回りという中京コースの適性は折り紙付きだったが、それでもこの日は、本来エアシャカールにとってこの上なくはまった展開で、しかも武騎手の騎乗がした上で、ツルマルボーイに完敗したという事実を彼らは正面から受け止めなければならなかった。

 実際のエアシャカールは、生涯20戦のうち、金鯱賞を含めてGllを5戦走っている。そこでの彼の戦績は、2着4回3着1回であり、世間で思われているほど無様な走りを繰り返していたわけではない。だが、彼にはそのクラシックでの実績ゆえに、背負わなければならない期待も常に大きかった。そして、2000年ジャパンカップ以降、彼が現実に応えた実績は、常に期待を下回るものでしかなかった。「Gllでトーホウドリーム、サンライズペガサス、ツルマルボーイに差し切られた二冠馬」という評は、いささか意地の悪い言い方ではあるにしても、まぎれもなき事実でもあった。

 その後の宝塚記念(Gl)は、天皇賞・春で上位を占めた強豪がことごとく回避したため、Gl馬はエアシャカールのみとなった。Glでありながら産経大阪杯、金鯱賞とそう変わりない顔ぶれとなったのはきわめて幸運なことであり、その両方で2着に入っているエアシャカールにとっては、復活の絶好機だった。ファンもそんな雰囲気を感じ取ってか、彼を前年の皐月賞、日本ダービー2着馬ダンツフレームに次ぐ2番人気に支持した。・・・だが、その結果は、ダンツフレームはもちろんツルマルボーイ、さらには無冠の3歳馬ローエングリンにまで遅れをとっての4着に終わった。惨敗とまではいかなくても、Glではもはや一歩足りない状態が常態化しつつあるという事実を、森師たちも認めないわけにはいかなかった。

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