エアシャカール列伝~みんな夢でありました~
『嘆きの天才』
神戸新聞杯の結果は、エアシャカール陣営に深刻な反省を迫るものだった。皐月賞、ダービー、キングジョージ、神戸新聞杯・・・。これまでのエアシャカールは、ほとんどのレースでは直線でササり、降着こそないもものの周囲をひやりとさせていた。菊花賞を目指すうえで、彼のササり癖は大きな障害となることが目に見えていた。森師はそれまでにも特訓を積んだり、馬具を工夫したりしてきたが、いっこうに改善は見られない。あとは日本のトップジョッキーたる武騎手の騎乗技術に頼るしかなかったが、その武騎手にしても、簡単に直せるくらいならとっくに直している。
「(エアシャカールの)頭の中がどうなっているのかを見てみたい」
と嘆かずにはいられなかった。
菊花賞はすぐそこに迫っていた。果たして武騎手は、この短期間で対策を見つけることができるのか。森師らの心のはかりは、期待よりは不安の方に傾いたまま、本番を迎えることになった。
『過去を捨てて』
菊花賞当日の単勝オッズは、ダービーと神戸新聞杯の結果を受けて、アグネスフライトが単勝190円で1番人気となった。アグネスフライトと2度戦って2度とも負けたエアシャカールは、一歩譲った280円での2番人気だった。彼らに次ぐ3番人気はセントライト記念2着のトーホウシデンだったが、トライアル勝ち馬不在の中で、彼の人気は単勝1080円と「二強」から大きく離されていた。まずファンの関心を集めたのは「二強」がどのような競馬をするのか、ということだった。
そして、「二強」に注目していたファンは、驚きの声をあげることになった。アグネスフライトが後方から・・・というのは予想どおりだったが、エアシャカールの方が好スタートを切り、好位につけたのである。その後エアシャカールは無理をすることなく位置を下げていったものの、それもせいぜい中団までだった。
それまでのエアシャカールは、いつも馬群の後方を追走し、第3コーナー付近からロングスパートをかける、という競馬を得意としていた。ところが、この日の彼はスタート直後は好位につけ、その後位置を下げていったとはいえ、中団からの競馬を進めている。
この競馬は、武騎手の明確な意図に基づくものだった。武騎手は、これまでのレース中のエアシャカールのよれ方に、ある特徴があることに気づいていた。エアシャカールは、皐月賞、神戸新聞杯では内、ダービーでは外によれた。何の法則性もないように見えるが、皐月賞の中山競馬場、神戸新聞杯の京都競馬場は右回り、東京競馬場は左回りである。つまり、エアシャカールは何の法則もなくよれるのではなく、右によれる癖があるということではないのか?
もし武騎手の推測が正しければ、中山競馬場、阪神競馬場と同じく右回りである菊花賞の京都競馬場では、エアシャカールは内によれることになる。・・・ならば、内ラチ沿いぎりぎりに走れば、エアシャカールはよれたくてもよれられない。
ただ、ずっと内ラチ沿いに走ろうとすると、後方一気のまくりでは通用しなくなる。馬場状態などの特別な事情がない限り、どの馬も進路を内にとりたがる。そうすると、後方に陣取る「いつもの競馬」では、内ラチ沿いの進路は他の馬によってふさがれてしまう。この作戦は、後方一気のまくりとは両立しない。
それでも武騎手は、これまで結果を出していた後方一気のまくりを捨て、あくまでも内ラチ沿いを走る道を選んだ。それは、勝つための選択であると同時に、起こりかねない大事故を未然に防ぐための義務でもあった。
『覚悟』
レースは最初、ゴーステディが先手を取ったものの、それにマイネルビンテージが絡んでいった上、第1コーナーではマッキーローレルが先頭を奪うという熾烈な先頭争いが展開された。その結果、この日は長距離レースとしてはよどみのないペースで流れていった。
エアシャカールが中団に下げ、そのまま落ち着かせていると、最大の敵であるアグネスフライトは逆にその位置を少しずつ上げてきた。向こう正面では河内騎手の手が動き、アグネスフライトはエアシャカールより一歩早く進出を開始する構えを見せる。・・・だが、エアシャカールはまだ動かない。
どんなに考え抜かれた作戦でも、実践の段階であるものを欠いた場合、すべてが水泡に帰することは珍しくない。・・・そこに必要とされるものは、厳しい現実にさらされてなお、自分自身の決断を信じ、その作戦を貫く覚悟である。果たしてエアシャカールは、道中にある程度前につけた場合でも、仕掛けた時に抜け出す脚を持っているのか。
それは賭けではあったが、いったん決めた以上は貫き通さなければならない決断でもあった。そして、武騎手は、目下の敵の動きにも惑わされることなく、あらかじめ決めた作戦を貫き通した。