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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

『勝利の代償』

 しかし、予期せぬ勝利の代償は、あまりに重かった。未完成の馬体で実力以上の爆走を見せた反動なのか、ラッキーゲランはレース後腰を痛めてしまったのである。ラッキーゲランは生まれ故郷のロイヤルファームへ放牧に出されたが、そのとき彼はろくにコーナーを回れないほどフラフラの状態になっていた。精密検査をしてみると、腰だけでなく、脚の深管まで悪くしていた。

 ラッキーゲランは、乗り運動も満足に出来ない状態で、まず故障を治すことに専念しなければならなかった。翌年にトライアルが始まり、クラシックを目指す新星たちが次々と名乗りをあげる中で、彼はただ1頭、無聊をかこつ日々が続いた。皐月賞馬ドクタースパート、ダービー馬ウィナーズサークル・・・近年稀に見る本命不在の激戦を制してクラシックホースが次々と誕生する頃、ラッキーゲランの時計はいまだに止まったままだった。

 結局、脚部不安が長引いたラッキーゲランは、春のクラシックどころかついに菊花賞(Gl)にすら間に合わず、4歳シーズンをほぼ1年まるまる棒に振る形となってしまった。彼の世代のダービー馬ウィナーズサークル、菊花賞馬バンブービギンは、いずれもラッキーゲランがGl馬となったときには、まだ未勝利戦をうろうろしていた馬だった。

『勇者は死なず』

 ラッキーゲランが阪神3歳S(Gl)の後再びターフに姿をあらわしたのは、12月の中京競馬場、CBC賞(Gll)でのことだった。そのときラッキーゲランは、ファンからはほとんど忘れ去られかけた状態で、ローカルGllで斤量も54kgと恵まれていたにもかかわらず、16頭だての11番人気だった。

 約1年のブランクが重かったのか、復帰戦でどん尻の16着に沈んだラッキーゲランは、その後様々な条件のレースで試行錯誤を重ねながら、実戦の勘を取り戻そうと必死に戦った。いわゆる「裏街道」のレースを選んで、だいたい月1、2走の厳しいローテーションで走り続けた。それでも一度止まった時計はなかなか元には戻らない。ラッキーゲランにとってはつらい日々が続いた。

 しかし、ラッキーゲランはまだ死んではいなかった。負けの中から調子を取り戻し始めたラッキーゲランは、まずコーラルS(OP)で1年4ヶ月ぶりの勝利を収めた。その後はまた低迷が続いたものの、夏に戦場を北の函館に移してからは、「完全復活」と言っていい活躍を見せた。

 まず伝統の巴賞(OP)で4馬身差の圧勝を遂げ、コーラルSに続く勝利の美酒を味わったラッキーゲランは、続く函館記念(Glll)で、生涯ただ一度の1番人気に推され、57.5kgのトップハンデながら快勝し、完全復活を高らかに誇示した。ちなみにこのとき破った相手には、後にグランプリ連覇を果たすメジロパーマーも含まれている(7着)。

 次走となる天皇賞・秋(Gl)の前哨戦として知られる毎日王冠(Gll)でも、ラッキーゲランはもうひと仕事をやってのけた。毎日王冠の出走馬は10頭と少なかったものの、その中には前走の宝塚記念(Gl)で、あのオグリキャップを撃破して念願のGlを奪取したばかりのオサイチジョージや、適距離は外れるものの、当時既に安田記念(Gl)を勝ち、さらにその年の暮れにはGlに格上げされたスプリンターズSで初代スプリント王に輝くバンブーメモリーがいた。そのほかにも無事是名馬ランニングフリー、トウショウマリオ、マキバサイクロンといった脇役たちも揃っていた。・・・だが、そんな相手を向こうに回して先行策をとったラッキーゲランは、好位置から直線そのまま押し切るという横綱相撲を見せて、見事3連勝を飾った。

『最後の檜舞台』

 毎日王冠(Gll)は、天皇賞・秋(Gl)と同じ東京競馬場で行われ、距離も200m短いだけである。そこで、例年は毎日王冠の勝ち馬が天皇賞・秋の有力候補として、多くの印を打たれる存在となる。

 だが、ラッキーゲランの場合、夏以降の戦績にもかかわらず、本番では18頭だての6番人気にしかならなかった。ラッキーゲランが勝ってきた函館記念(Glll)、毎日王冠(Gll)は、いずれも相手関係が楽なところと考えられたがゆえに、せっかくの勝利も、本番での人気には直結させてもらえなかったのである。毎日王冠は、2頭のGl馬を破っての優勝だったものの、当時競馬界の認識では、最強はあくまで6歳の両横綱オグリキャップ、スーパークリークと7歳の古豪イナリワンからなる平成三強で、それに続くのがメジロアルダン、ヤエノムテキら6歳世代の大関クラスとされていた。5歳世代は「弱い世代」といわれており、その一員たるラッキーゲランも例外ではなかった。

 そして、ラッキーゲランの天皇賞・秋の結果は、その人気すら大きく裏切るブービーの17着に終わり、図らずもそんな見方を証明することになってしまった。続くマイルCS(Gl)ではパッシングショットの4着に入って少しだけいいところを見せたものの、スプリンターズS(Gl)では、バンブーメモリーの10着に敗れた。

 そして、そのスプリンターズSが、ラッキーゲラン最後のGl挑戦となった。・・・とはいっても、彼の戦いが終わったわけではない。彼の戦いは、それからなお3年の長きに渡って続いていくのである。

『ハンデキャップホース』

 その後のラッキーゲランは、実力の限界を悟ったかのように華やかなGl戦線を避け、徹底して裏路線を歩み続けた。時々思い出したかのように中央開催のレースに出たこともあったものの、結果は伴わなかった。

 裏路線の別定戦、あるいはハンデ戦では、Gl勝ちをはじめとして重賞を3勝しているラッキーゲランは、当然多めの斤量を背負わされることになる。それでも彼はしぶとく走り続け、多くは凡走しながらも、何回に1回か、人気が落ちきったところでいい走りを見せた。6歳時の中京記念(Glll)では、59kgを背負って8番人気まで支持を落としたかと思いきや、突然2着に好走した。ちなみに、このときの勝ち馬は、後の天皇賞馬ながら当時はローカル専門のハンデキャップホースと見られていたレッツゴーターキンである。さらに、人気が上がりかけたところでまた下から数えたほうが早い着順を続け、半年後のトパーズS(OP)では見捨てられて11頭立ての9番人気になっていたが、ここでも59kgを背負ったにもかかわらず、スタートから好ダッシュで先頭に立つと、阪神3歳S(Gl)を思い出したかのように逃げ切り勝ちを収めた。ラッキーゲランは、毎日王冠以来約1年ぶりの勝利の美酒を手にするとともに、また穴馬券を演出し、穴党のひねくれ者どもを大喜びさせたのである。

 もっとも、中途半端なところで頑張るものだから、ハンデはなかなか軽くならなかった。7歳になったラッキーゲランは、59kgだの59.5kgだのを平気で背負わされるようになった。真夏の伝統のオープン巴賞では、62kgを背負って不良馬場を走った。このような状況にあっても4着や5着という微妙なところで賞金を持ち帰るのはさすがだが、馬券にはなかなか絡めなくなってしまった。

『最後の一葉』

 ラッキーゲランが最後の輝きを見せたのは、8歳になってからだった。もはや古豪となったラッキーゲランは、まず5歳時、7歳時に続いて3度目の出走となった京都金杯(Glll)で、58kgを背負って13番人気の人気薄ながら、過去最高の3着という結果を残し、久々に複勝馬券に絡んで復活の兆しを見せた。そして、続く小倉大賞典(Glll)でも58kgを背負った8番人気で4着と健闘し、天皇賞・春(Gl)の前哨戦として一流馬が集まる大阪杯(Gll)に出走したところ、勝ったメジロマックイーンからは引き離されたものの、11番人気を裏切る3着に激走したのである。これならば、展開にさえ恵まれれば久々の重賞制覇も夢ではないと思わせる活躍だった。

 しかし、これはラッキーゲランが燃え尽きる直前の、最後の輝きだったようである。大阪杯の後のラッキーゲランは、一気に疲れが出たため放牧に出されたものの、復帰した時には、さすがに力も闘志も衰えていた。その後は2走したもののいずれも2桁着順に終わったラッキーゲランは、通算42戦8勝という戦績を残し、現役を引退することになった。彼の重賞制覇は阪神3歳S(Gl)、毎日王冠(Gll)、函館記念(Glll)の3つで、他にコーラルS(OP)、トパーズS(OP)、巴賞(OP)という3つのオープン特別勝ちを重ね、獲得賞金は3億円をわずかに超えていた。

『つま恋の里で』

 このように、競走馬としては長期間にわたって優れた実績を残したラッキーゲランだったが、種牡馬になることはできなかった。このあたりの事情は詳しくは分からないが、地味な血統、そして地味な印象が災いしたのだろうか。

 彼の生涯戦績を数えてみると、Gl馬となった後に走った36戦のうちハンデ戦が16戦を占めている。こういった戦績は、日本の一流馬には稀である。アメリカでは、重い斤量を背負って勝てるタフな精神力が種牡馬の要素として評価されることも少なくないが、悲しいかな、日本競馬の懐はそこまで深くはなかった。

 そんなラッキーゲランは、やがて乗馬として、静岡県にあるつま恋乗馬倶楽部に迎えられた。多くの名馬を乗馬として繋養している同倶楽部には、同僚として、メジロマックイーンの兄であり、自らも有馬記念、菊花賞を制したメジロデュレンなども一緒に繋養されていた。戦いに生きてきた競走馬を、乗馬に調教しなおすことには様々な困難が伴うため、「乗馬」といいながら、競走馬が乗馬になる馬は少ないが、ラッキーゲランはその少数の例になることができたようである。

 種牡馬となれなかったことを不幸と見ることも可能だし、現に種牡馬となれずに「乗馬」となった馬のほとんどが悲惨な末路を遂げていることは、競馬ファンのすべてが知りながら知らないふりをしている競馬界の暗部である。乗馬になった後のラッキーゲランがいつ、どのような形で死亡したかは、競走馬の余生に対する関心が高まる以前だった時代を反映して、伝えられていない。しかし、ゴールドシチーが乗馬として生きられなかった失敗例ならば、乗馬になったという確認をはっきりと取ることができるラッキーゲランは、それより幾分幸福な例として数えることができるのではないだろうか。 (この章、了)

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