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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

1987年6月12日生。死亡日不詳。牡。鹿毛。黄金牧場(伊達)産。
父マグチテュード、母コガネポプラ(母父カブラヤオー)。池江泰郎厩舎(栗東)。
通算成績は、33戦4勝(3-8歳時。うち、障害3戦1勝、地方6戦0勝)。
主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)。

=コガネタイフウの章=

『流浪の果て』

 1989年の勝ち馬コガネタイフウは、変転極まりない阪神3歳S(Gl)勝ち馬たちの中でも、最大級の波乱に満ちた生涯を送った馬といえるだろう。

 今回の「阪神3歳S勝ち馬列伝」では6頭の歴代勝ち馬を紹介しており、その過半数の馬生は、すべてのGl馬の平均水準に比べて、決して恵まれているとは言い難いものだが、その中でもコガネタイフウは極めつけと言わなければならない。Gl馬多しといえども、Glを勝った後に障害入りした馬、同じくGlを勝った後に地方へと流れていった馬は、ほとんどいない。ところが、コガネタイフウは1頭でこの両方を経験したのである。そんな彼が、流浪の果てに見た光景は、果たしてどのようなものだったのだろうか。

『父の危機を救うため』

 コガネタイフウの父マグニテュードは、戦績だの血統だのを並べるよりも、「二冠馬ミホノブルボンの父」といった方が手っ取り早い。ミホノブルボン以外にも多くの活躍馬を輩出し、晩年まで産駒のマサラッキが高松宮記念を制し、底力をアピールしたマグニテュードは、種牡馬としてかなりの成功を収めたといっていいだろう。

 もっとも、マグニテュードの場合、はじめから人気種牡馬として成功が確約されていたわけではなかった。マグニテュード自身は、競走馬としては6戦未勝利に終わった三流馬にすぎない。父、母のGl勝ちがあわせて10個という良血ゆえにシンジケートが結成されて日本へ輸入されたものの、この程度の種牡馬では、よほどの成績を残さなければ、シンジケートを維持してまで所有するメリットはない。目に見える結果が出なければすぐにシンジケートは解散し、種牡馬としても先細りになり、やがて廃用になるという筋書きは、目に見えていた。

 ところが、マグニテュードの初期の産駒は、桜花賞馬エルプスを出したものの、他には活躍馬がほとんど出ない状態だった。最初のうちこそエルプスの余波で交配頭数も恵まれていたが、それに続く存在が出てこないと人気も下り坂になってくる。いつしかマグニテュードのシンジケートは、解散の話もちらほら出てくるようになっていた。

 コガネタイフウのふるさと・黄金牧場は、マグニテュード輸入の際に中心になった牧場のひとつだった。黄金牧場は、なんとかマグニテュードの種牡馬としての実績を引き上げてシンジケートの存続を図るため、自分の牧場の繁殖牝馬に積極的な種付けを行った。黄金牧場はピーク時でもせいぜい20頭弱しか繁殖牝馬を所有していなかったが、年によってはそのうち5頭に交配したこともあったという。コガネタイフウの母コガネポプラも、そうした方針のもとで、何年も繰り返しマグニテュードに交配された牝馬の1頭だった。

 コガネポプラはカブラヤオー産駒で、黄金牧場自慢の、デイオブレコニングを祖とする牝系の出身だった。デイオブレコニングは英国2000ギニーやロッキンジSを制した名マイラー・ペルメルの姪にあたり、牧場が命運をかけて輸入したと言っても過言でない牝馬だが、この系統はなぜか牡馬が多く、黄金牧場にも当時この系統の牝馬は2頭しかいなかった。

 彼女は、かつて最初にマグニテュードと交配された際には、なかなかの牡馬を生んだ実績があった。コガネタイフウにとって3歳上の全兄にあたるコガネターボは、3歳から4歳まで、まずは道営競馬で走って14戦7勝の戦績を残した。その後5歳から中央入りした彼は、重賞勝ちこそないものの3勝をあげ、京王杯SC(Gll)や阪急杯(Glll)で2着、中山記念(Gll)で3着に入る活躍を見せている。また、コーラルSでは、前記のラッキーゲランと死闘を繰り広げ、惜しくも2着に敗れたこともある。そんな彼は、中央で25戦4勝(うち障害2戦1勝)の戦績を残し、8歳からは水沢競馬に転出した。ここでは結果は残せなかったものの、スイフトセイダイやグレートホープ、モリユウプリンスといった盛岡競馬の伝説戦士たちの戦いを知る歴史の生き証人となっている。

 当時コガネターボはまだデビューしていなかったが、黄金牧場は評判の高い全兄のような馬をもう一度作りたい、と彼女を再びマグニテュードと配合することにしたのである。この後コガネポプラはマグニテュードと繰り返し交配され、結局コガネポプラは、コガネターボ、コガネタイフウを含めて6頭のマグニテュード産駒を残している。

 コガネタイフウはこのようないきさつのもと、1987年6月12日に誕生した。同期のサラブレッドの中ではかなり遅い生まれである。父の危機を救うべく生まれてきたこの馬に、牧場の人々は「牧場名+台風」という意味のコガネタイフウという名を与えた。コガネタイフウは後にせりに出されて1510万円で落札されたが、馬主もこの名前が気に入ったのか、牧場での名前がそのまま競走名になっている。

『関西にいない関西馬』

 3歳になり、栗東の中村好夫厩舎に入厩したコガネタイフウは、デビューを目指して調教が積まれることになった。気性が難しく乗りにくい馬ではあったが、9月の阪神開催でデビューを果たし、デビュー戦4着、折り返しで2度目の新馬戦2着の後、3度目の新馬戦でダートに替わって初勝利を挙げた。

 この年の中村厩舎の3歳世代は絶好調で、コガネタイフウ以外にも何頭かの所属馬が早々に勝ち星を挙げていた。しかし、この時期に戦場を関西のみに絞ってしまうと、レース数の少なさゆえに、オープンどころか500万下のレースですら同厩の潰し合いが生じてしまう。そこで、中村師は3歳馬の関東遠征を積極的に活用し、手勢を東西に分けて戦うことが多かった。新馬戦を勝ち上がったばかりのコガネタイフウは、遠征組として白羽の矢が立てられた。ただ、当時競馬界はもう「西高東低」が常識となりつつあった。大レースでもないのにわざわざ遠征するというのは、コガネタイフウが期待馬だったというよりは、その逆だったといったほうが真相に近そうである。

 コガネタイフウは関西馬ながら東京で3度続けて出走し、アイビーS(OP)3着、きんせんか賞優勝、府中3歳S(OP)5着という戦績を残した。そして、2勝馬となったコガネタイフウは、本拠地関西の3歳王者決定戦である阪神3歳S(Gl)に参戦するため、ようやく関西へと戻ってきた。

『混戦の中で』

 この年も阪神3歳Sは、混戦の様相を深めていた。本来、この年の関西における3歳世代には、ヤマニングローバルという傑出馬がいた。三冠馬ミスターシービーの初年度産駒であるヤマニングローバルは、父を髣髴とさせる末脚を武器にデイリー杯3歳S(Gll)をはじめ無傷の3連勝を飾り、出走できれば圧倒的1番人気となることが明らかだった。ところが、そのヤマニングローバルは、デイリー杯3歳S直後に骨折でリタイアしてしまった。主戦である若き日の武豊騎手が

「来年のGlを4つ損しました」

と悔しがった無念の故障により、阪神3歳Sは、主役不在のまま戦われることになったのである。

 もっとも、それまで6戦も走ってやっと2勝、しかも関西馬のくせにひとつは東京で勝ち上がってきたコガネタイフウの場合、関西のファンでも、その勝ち方を生で見た人は少なかった。あるいは、見ていたとしても買う気にはならなかったかもしれない。それまでのレースは、ゲートインにてこずるわ、出遅れるわ、道中で引っかかるわで、2つも勝てたのが不思議なくらいの内容だった。当然コガネタイフウにそれほどの支持は集まらず、本命不在の中でも12頭だての7番人気、単勝1290円という人気薄だった。

 しかし、鞍上の田原成貴騎手は、コガネタイフウにひそかな期待をかけていた。田原騎手がコガネタイフウに騎乗するのはこの日が初めてだったが、騎乗依頼を受けた後、彼はコガネタイフウのそれまでの走りを何度もビデオで見返して研究していた。彼の眼には、勝ったきんせんか賞での、道中で不利を受けながらひるまないコガネタイフウの走りが焼きついていた。

「この馬の根性はかなりのものだ。折り合いさえつけば、なんとかなる」

 彼は、そうにらんでいた。・・・コガネタイフウは、その折り合いをつけることが非常に難しいのだが。

 ゲートが開いたときのコガネタイフウのスタートは、出遅れ、というほどでもなかったが、誉めるほどのものでもなかった。だが、田原騎手はここで無理に前につけようとすると、必ずかかってしまう、と読んだ。かからせてしまうよりは、最後方からの競馬になっても気持ちよく走らせた方がいい。田原騎手は、細心の注意を払いながら、手綱を抑えてレースを進めた。

 その頃、先頭では前走のさざんか賞を好タイムで逃げ切った勢いで連闘をかけてきた評判馬ダイタクヘリオスが、快調に飛ばしながらレースを引っ張っていた。スタート直後の1ハロンを除き、その後は3ハロン続けて1ハロン11秒台前半のラップを刻むハイペースである。そんな流れの中で、最初こそ最後方にいたコガネタイフウは、ペースが緩み始めた頃から、少しずつ、しかし確実に進出し始めた。この進出は騎手が仕掛けてのものではなく、馬自身の意志によるものだった。田原騎手の細心の注意のかいあって、コガネタイフウは勝負どころを前に、確かに走る気になっていたのである。

『早すぎた頂点』

 そんなコガネタイフウに、田原騎手は手綱を通じ、鞍上にいながら抑えようにも抑えきれないほどの手応えを、誰よりも敏感に感じ取っていた。それは、彼に十分な勝利を予感させるものだった。

「勝つためには、どうするべきか」

 勝負師としての計算をめぐらせた田原騎手は、こう結論付けた。

「ダイタクヘリオスはいつでもかわせる。後ろのツルマルミマタオーが相手だ」

 田原騎手は、仕掛けを遅らせながら、後方待機策をとったはずの1番人気ツルマルミマタオーの来襲を待った。だが、ツルマルミマタオーがやってきたタイミングが田原騎手の読みよりかなり遅れた結果、コガネタイフウの仕掛けも遅れることになった。

 田原騎手の追い出しが遅れたことで、今度は逃げるダイタクヘリオスが有利になった。田原騎手が「いつでもかわせる」と踏んだ読みとは違い、ダイタクヘリオスは粘った。追走してきた先行馬たちがハイペースについていけずに脱落していく中、その中心にいるダイタクヘリオスの脚色は衰えを見せない。ぐんと伸びてきたコガネタイフウが懸命に追うも、並んで抜かせぬ二枚、三枚腰の粘りを見せて、このまま逃げ切るかと思わせる頑張りである。本格化前とはいえ、後にマイルCS(Gl)を連覇する大器の片鱗は、ここにあった。

 しかし、最後の最後に勝ったのは、完成度に勝るコガネタイフウの末脚だった。ダイタクヘリオスの不屈の闘志をわずかに凌ぎ、ゴール板前でアタマ差だけ前に出たコガネタイフウが、激戦の末、ついに西の3歳王者に輝いたのである。

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