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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

1984年4月16日生。1990年5月1日死亡。牡。栗毛。田中牧場(門別)産。
父ヴァイスリーガル、母イタリアンシチー(母父テスコボーイ)。清水出美厩舎(栗東)。
通算成績は、20戦3勝(3-6歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、コスモス賞(OP)。

=ゴールドシチーの章=

『挽歌』

 1986年の勝ち馬ゴールドシチーは、今回取り上げる6頭の中では、比較的有名な部類に属する。「四白流星尾花栗毛」―あらゆる馬の毛色の中で最も美しいといわれる毛色を持ったこの馬は、年間約8000頭が生産される日本のサラブレッドの中でも稀に見る美しさを持っていただけでなく、実力の面でも、単なる「早熟馬」として侮ることができないレベルに達していた。ゴールドシチーの勝ち鞍のみを並べると、阪神3歳S(Gl)が最初で最後の重賞勝ちであり、それが生涯最後の勝利である。しかし、ゴールドシチーはクラシック戦線で皆勤を果たしているのみならず、皐月賞(Gl)、菊花賞(Gl)では2着、日本ダービー(Gl)でも4着に入る健闘を見せている。この戦績は、4歳時点での同世代の中でもトップクラスというに値する。大多数のファンは、ゴールドシチーを1987年のクラシックを彩る名優の1頭に数えることに異存は特にないだろう。

 だが、ゴールドシチーの名前が有名になった背景には、もうひとつの別の理由もあった。1987年に牡馬クラシックを戦った彼らの世代は「悲劇の世代」とも呼ばれ、皐月賞で1、2、3着を占めた馬たちがすべて非業の最期を遂げてしまったことでも知られている。皐月賞、菊花賞の二冠を制したサクラスターオーは有馬記念で致命傷を負い、半年の闘病生活の後に安楽死となった。スプリングSの豪脚で一気にスターダムにのし上がり、皐月賞でも3着に入ったマティリアルは、その後4歳春の輝きを失ったかのように長い不振に陥ったものの、復活を夢見て懸命に走り続け、6歳秋に2年半ぶりの勝利を挙げることと引き換えに、その生命を差し出した。そして、大願には届かなかったもののクラシックを沸かせ続けたゴールドシチーも、引退後間もなく、かつてのライバルたちの後を追うかのように、謎の死を遂げてしまった。こうしてゴールドシチーは、そのミステリアスな死によって悲劇の一角を担った悲しい運命ゆえに、我々の記憶により深く残ることとなったのである。

『馬に貴賎なし、然れども血統に貴賎あり』

 ゴールドシチーが生まれたのは、門別の田中牧場である。当時の田中牧場は、田中茂邦氏夫妻が2人で経営していた小さな牧場であり、過去に特筆すべき実績馬を出したこともなかった。

 ゴールドシチーの母であるイタリアンシチーは、大衆向け一口馬主クラブの走りともいうべき友駿ホースクラブの所有馬であり、子分けの繁殖牝馬として、田中牧場へ預託されていた。イタリアンシチーは、同クラブの所有馬として走ったものの、通算7戦1勝という平凡な成績しか残せず、また近親にも特筆すべき活躍馬の名は見当たらない。

 ゴールドシチーの父であるヴァイスリーガルは、現役時代は3歳時にカナダで8戦8勝を記録して年度代表馬になったほどの実績馬である。また、種牡馬としても日本へ輸入される前、1975年から77年にかけて3年続けてカナダのリーディングサイヤーに輝いており、さらにカナダでは、半弟ヴァイスリージェントが後に11年連続でカナダ・リーディングサイヤーに輝く一時代を築きあげるが、当時はそんな時代が幕を上げつつあった。そんな背景があって、ヴァイスリーガルが輸入される際は高い期待がかけられており、また彼がそれに応えるための下地も、十分に整っていたはずだった。

 だが、ヴァイスリーガル産駒は、日本では思ったような成績を残すことができなかった。後にマーベラスサンデーの母の父となったことで、BMSとしての優秀さに再び注目が集まったヴァイスリーガルだったが、当時としては種牡馬としての結果が見え始めており、既に高齢だったこともあって、当初の期待は急速にしぼみつつあった。1984年にヴァイスリーガルが19歳で死亡したときも、馬産地ではそれほど惜しむ声はあがらなかったほどである。

 父が死んだ年に生まれたばかりのゴールドシチー、血統名「ヘミングウェイ」も、そんな情勢を受けて、血統への期待はさほど大きなものではなかった。

『強さと脆さと』

 ただ、「ヘミングウェイ」は血統こそ平凡だったものの、その四白流星尾花栗毛という派手な外見は平凡ではなかった。彼の毛色の派手さ、そして美しさは際立っており、馬をほとんど知らない人でも、彼だけは遠くから見ただけですぐに区別できた。田中氏は、「ヘミングウェイ」について、

「もし競走馬になれなかったらディズニーランドに寄付しようか」

という話をしていたほどである。

 しかし、長ずるにつれて「ヘミングウェイ」は、競走馬としてもかなりの資質を持っていることが明らかになり始めた。田中氏によるディズニーランドへの寄贈案は、不発に終わった。

 「ヘミングウェイ」は、負けん気が並外れて強く、牧場内を走り回るときは、自分が先頭でないと気が済まないたちだった。気性は非常に激しく、田中氏の言うには、同期の中では「暴力行為でも抜きん出て」おり、ちょっと目を離すとすぐに同期の他の馬をいじめていたとのことである。そんな「ヘミングウェイ」は、同期から一目置かれていたのか恐れられていたのか、いつも群れのボスとして威張っていたという。

 2歳夏まで田中氏の牧場で過ごした「ヘミングウェイ」は、気性の悪さではさんざん田中氏に苦労をかけたものの、病気ひとつしない丈夫さという意味では、まったく手のかからない馬だった。やがて育成牧場に移っていった「ヘミングウェイ」は、母と同じ友駿ホースクラブの所有馬となって競走馬としてデビューすることになり、その派手な外見からゴールドシチーと命名され(「シチー」は冠名)、栗東の清水出美厩舎に入厩することになった。清水厩舎はその年開業したばかりであり、ゴールドシチーは実質的に清水厩舎の第一期生ということになる。

 清水師は、ゴールドシチーは、その素質とともに激しすぎる気性に

「こいつはものすごくいい成績を残すか、すぐに終わってしまうか、どっちかだ」

と感じたという。若き日のゴールドシチーは、まさに希望と紙一重の怖さとを併せ持っていた。

『目立たぬままに』

 当初、デビューを待っていた多くの若駒の中で、ゴールドシチーがたちまち頭角を現したわけではなかった。特別な良血でもなければ調教で抜群の時計を叩き出すわけでもないゴールドシチーは、夏にデビューした後も、しばらくの間は平凡な3歳馬の1頭としてしか数えられていなかった。

 デビュー後しばらくダートの短距離戦で走り続けた彼は、デビュー戦は10頭だて3番人気で5着、折り返しの2戦目は6頭だて3番人気で2着に敗れ、初勝利は3戦目の未勝利戦を待たなければならなかった。

 だが、鞍上の本田優騎手は、ゴールドシチーのレースの中に、意外なほどの手ごたえを感じていた。パドックでは激しくいれ込み、スタートでも大きく出遅れ、なんの見所もないように思われたゴールドシチーのデビュー戦だったが、本田騎手だけは、直線で見せた末脚から彼の秘められた資質を感じ取っていた。本田騎手は、それまでGl級の大レースの勝ちはなかったものの、デビュー以来着実に勝ちを稼ぐことで技術を認められつつあり、日頃から積み重ねる努力の中で馬の素質を見る目を養っていた。

 本田騎手の見立ての正しさを証明するかのように、ゴールドシチーはその後重賞初挑戦となる札幌3歳Sで、7番人気の低評価ながらよく追い込んで2着に入った。また、オープン馬としての初戦であり、はじめての芝コースとなった次走のコスモス賞(OP)では、この年の暮れに朝日杯3歳S(Gl。現朝日杯フューティリティS)を勝ち、翌年にはダービーを制するメリーナイス以下、ライバルたちをまったく寄せつけず、2勝目をあげて北海道シリーズの有終の美を飾った。

『関西お目見え』

 北海道で5戦を走ったゴールドシチーは、ようやく栗東へ帰ってくると、その後しばらくレースには出走せず、慎重に調整することになった。コスモス賞から約3ヶ月、ゴールドシチーの復帰戦となったのは、阪神3歳S(Gl)だった。関西馬のくせに、関西初出走はGlになったのである。

 このローテーションについて清水師は

「早くから阪神3歳S一本に絞った調教をしてきた。久々の不安はない」

と語っていた。しかし、経験の浅い3歳馬はただでさえ何が起こるか分からない。まして、馬は名だたる気性難のゴールドシチーである。彼を有名にしたのは、早起きのサラブレッドの中で、彼はなぜか早起きというものが大嫌いで、無理に起こそうとすると大暴れするため、いつしか他の馬たちが朝の調教をとっくに終える午前10時を過ぎないと、決してトレセンに現れない馬として、「午前10時の男」と揶揄されたという逸話だった。

 3歳馬は、レースの間隔があくと、何かといれ込みがちになる。この日のゴールドシチーは、特にそれが激しかった。騎乗した本田騎手も「振り落とされないようにするのがやっと」という状態であり、まずはまともなレースができるかどうかを心配しなければならなかった。

 ありあまる闘志なのか、ただの入れ込みなのか、わからないままにスタートからものすごい勢いで飛び出したゴールドシチーは、ややかかり気味でハナを切りにいった。鞍上の本田騎手は、まずはメイショウマツカゼに先を譲って逃げさせるため、ゴールドシチーを抑えようとしたものの、肝心の馬は先頭を走りたくてたまらない。親の心子知らず」と言うが、逃げ馬を突っつこうと「頑張る」ゴールドシチーとそれを懸命に抑える本田騎手の姿は、まさに「騎手の心馬知らず」だった。

『西の3歳王者』

 こんな調子だから、本田騎手としても自分の構想よりは早めに先頭に立つ展開を余儀なくされた。それでも手ごたえはとてもよく、いったん先頭に立った時には、本田騎手もこのまま抜け出せる、と勝利を半ば確信したという。

 ところが、ここでゴールドシチーは本田騎手が予想もしないことを始めた。突然ソラを使ったのである。ソラを使うとは、レース中によそ見をすることだが、全力を尽くして走っている時なら、ソラを使う余力などあるはずはない。負けず嫌いでは人後(馬後?)に落ちないゴールドシチーだったが、いったん先頭に立つと、それで満足してしまったのか、勝手に気を抜いてしまったのである。当然後続は、この機を逃すまじ、とばかりに一気に差を詰めてくる。

 幸い、いざ抜かれるかといった段階になって、ゴールドシチーの闘志に再び火がついた。この日のゴールドシチーのいれ込みはいい方向に作用し、むき出しの闘志につながった。再び走る気になったゴールドシチーは、抜かせまい、と二の脚を使い、追い上げてきたサンキンハヤテ、ファンドリスキーと団子状態になったままゴールへと駆け込んだ。・・・そして、写真判定の結果、サンキンハヤテをアタマ差抑えたゴールドシチーは、見事に西の3歳王者に輝いた。開業1年目の清水師、24歳の本田騎手ともGl初制覇だった。勝ち方自体はかなり課題の残るものだったが、彼らもこの日だけは、勝利の美酒にすべてを忘れたのである。

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