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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

『蹉跌』

 弥生賞でリンドシェーバーを破り、世代の実力ナンバー1となったはずのイブキマイカグラだったが、日本競馬界史上最強の名馬にして、「皇帝」と呼ばれたシンボリルドルフの血を継ぐトウカイテイオーが若葉S(OP)のために東上し、無敗の4連勝で皐月賞への切符を手にすると、人の流れは一気にトウカイテイオーの方へと傾いていった。

「皇帝の子帝王現る!」

「三冠相続!」

 移り気なマスコミの大勢は、たちまち圧倒的なカリスマを持つトウカイテイオー陣営に投じ、皐月賞を前に、スポーツ紙の競馬欄の見出しはトウカイテイオーに独占されるようになっていた。

 3歳時から「野平厩舎にとてつもない大物がいる」と噂になっていたシンボリルドルフのときと違って、トウカイテイオーは、若葉Sまでの時期は、さほど騒がれていなかった。しかし、それだけに彗星のように現れた後のフィーバーは際立っていた。トライアルの王道とも言うべき弥生賞を勝って「クラシックの主役」だったはずのイブキマイカグラの影は、若葉Sを境に、彼自身とは関係ないところで薄くなり始めていた。

 また、イブキマイカグラに味方しなかったのは人だけではなかった。天もまた、彼ではなくトウカイテイオーに味方したのである。イブキマイカグラが逆転を狙った皐月賞(Gl)は、かなりのスローペースとなった。この流れは、好位からレースを進められるトウカイテイオーに有利であり、逆に直線一気の末脚を武器とするイブキマイカグラにとってはきわめて不利なものだった。それでも持ち前の末脚で4着に突っ込んだことは、イブキマイカグラが凡庸の器ではないことを示している。しかし、イブキマイカグラが後方から懸命に追い込んできたとき、トウカイテイオーは既に自らの位置を生かしてとっくに馬群を抜け出し、まったく危なげなく先頭でゴールを駆け抜けていた。イブキマイカグラの強い負け方は、あまりにも強すぎた勝者の勝ち方ゆえにかき消された。

『悲運の大器』

 しかし、生涯に一度しか出られないクラシックをあっさりあきらめるわけにはいかない。幸い皐月賞(Gl)から日本ダービー(Gl)へと戦場が移り、中山から直線が広い東京へとコースが変わることは、末脚勝負のイブキマイカグラにとって有利な材料だった。

 皐月賞の後、ゆったりしたローテーションを組んで皐月賞からダービーへ直行したトウカイテイオーをよそに、イブキマイカグラは強行軍でダービー前にトライアルのNHK杯(Gll)に出走した。そして、格落ちの相手とはいえ、「外枠不利」が常識となっている東京・芝2000mコースで16頭立て16番枠、文字通りの大枠をまったく問題とせず、直線だけですべての敵を斬り捨てる、次元の違う豪脚を見せて圧勝した。

 中尾師が、ローテーションが厳しくなることを承知であえてNHK杯にイブキマイカグラを出走させたのは、関西馬であるがゆえに東京競馬場で走ったことのなかった彼に、ダービー前に一度東京競馬場を経験させておくためだった。東京競馬場未経験の点については最大のライバル・トウカイテイオーも同じだったから、ここでの経験、そして圧勝は、イブキマイカグラにとってダービーでの大きなアドバンテージになるはずだろう・・・。

 ところが、このアドバンテージはついに生かされぬままに終わってしまった。イブキマイカグラはダービーをわずか3日後に控えた最終追い切りで骨折してしまったのである。当然ダービーには出られようはずもなく、イブキマイカグラのダービーはレースの3日も前に終わってしまった。ある競馬記者が「嗚呼、未完の大器はなぜ完成しない」と嘆いた悲劇をよそに、イブキマイカグラのいないダービーは、トウカイテイオーの圧勝、無敗の二冠達成で劇的に幕を閉じた。

『無常』

 秋になってようやく骨折から復帰したイブキマイカグラは、最後のクラシックである菊花賞(Gl)を目指して京都新聞杯(Gll)から動くことになった。少なくともイブキマイカグラにとっては幸運なことに、春の二冠馬トウカイテイオーはダービーのレース後に骨折が明らかになって休養に入り、菊花賞までの復帰は絶望になっていた。

 イブキマイカグラの復帰初戦となった京都新聞杯で、彼は夏の間に急速に力をつけつつあったナイスネイチャの2着となった。後に有馬記念(Gl)3年連続3着という金字塔(銅字塔?)をうち立てて「ブロンズ・コレクターズ・クラブ」会長に納まるナイスネイチャだが、当時は4歳馬ながら小倉記念(Glll)を勝ち、ここでまた京都新聞杯をも勝った、立派な正統派の名馬候補生だった。骨折による休養は、イブキマイカグラから勝利の味を忘れさせてしまったのだろうか。

 続く菊花賞(Gl)では、逃げ馬不在のため超スローペースとなったが、先行した馬たちが疲れてその脚が鈍ったところを自慢の瞬発力でまとめて差し切る、という勝ちパターンをもつイブキマイカグラにとっては、まさに悪夢のような展開になった。おまけに馬がスローペースに耐えられず、騎手の指示に逆らって前へ前へと行こうとする。南井騎手は懸命に手綱を抑えたが、馬の欲望までは抑えきれない。その結果、イブキマイカグラは道中無駄な脚を使うことになった。

 イブキマイカグラは、それでも直線で多くの馬たちをごぼう抜きにして見せたものの、道中のロスが災いして1頭だけには追いつくことができなかった。この日勝者の栄誉を受けたのは、戦前は距離不安がささやかれていたはずのレオダーバンだった。

 超スローペースの中でもしっかりと折り合いをつけて不安なスタミナを温存できたレオダーバンの前に、血統的な裏付けを持ちながらも折り合いを欠いてスタミナを浪費したイブキマイカグラは敗れ去ったのである。イブキマイカグラはレオダーバンから遅れること1馬身半の2着で、「自滅」というには酷な着順ではあったが、彼が自らの闘志を制しきれなかったがゆえの敗北だったこともまた事実であった。

 こうしてイブキマイカグラのクラシックは、最初の期待とは無縁の屈辱の中に終わりを告げた。

『不完全燃焼のままに』

 年が明けて、古馬となったイブキマイカグラは、産経大阪杯(Gll)から始動することになった。ここでは骨折による休養からようやく戦線に復帰して復活を目指すトウカイテイオーも登録しており、イブキマイカグラにとって雪辱の好機だった。・・・しかし、ここでイブキマイカグラはまったく見せ場も作れないままに掲示板にすら載れない7着と惨敗し、復活を果たしたトウカイテイオーに三たびその名を成さしめてしまった。続く天皇賞・春(Gl)でも、3着に入ったとはいえ、勝ったメジロマックイーンからは1秒3も離される完敗だった。トウカイテイオーに先着したといっても、相手はレース中に骨折していたのだから、そう威張れたものではない。

 かくして不完全燃焼のきらいがあったイブキマイカグラだったが、陣営から発表された次走には誰もが驚いた。イブキマイカグラの次走は、ちょうど天皇賞・春(Gl)の半分の距離にあたる安田記念(Gl)とされたのである。

 イブキマイカグラの牝系は長距離馬アンバーシャダイ、短距離王サクラバクシンオーを出していることからもわかるように、距離の融通性に富む一族である。しかし、父が明らかに純正ステイヤー血統のリアルシャダイであるイブキマイカグラに話を限るならば、やはり本質はステイヤーだったと見るべきだろう。

 さらに、このレースではイブキマイカグラの鞍上に主戦・南井騎手の姿はなかった。南井騎手はこの日騎乗依頼が自らの師匠でもある工藤嘉見厩舎のカミノクレッセとかちあってしまい、カミノクレッセのほうを選んだのである。この日のイブキマイカグラの主戦は、テン乗りの岡部幸雄騎手に託されることになった。

 名だたる気性難として知られるイブキマイカグラをテン乗りで完全に手の内に入れることは、いくら名手と呼ばれる岡部騎手でも不可能だった。安田記念(Gl)当日のイブキマイカグラはいつになく入れ込み、スタートの瞬間ゲートに頭をぶつけてしまった。1マイルのGlでこのロスは大きく、結局イブキマイカグラは11着という屈辱的な着順に沈んだのである。

 そして、この日がイブキマイカグラの最後のレースとなった。その後イブキマイカグラは競走馬にとっての不治の病といわれる屈腱炎を発症し、引退が決定した。

『残された者の使命』

 このように、競走生活の後半生は恵まれていたとは言いがたいイブキマイカグラだったが、その後については比較的恵まれた環境でスタートを切ることが出来た。阪神3歳S(Gl)、弥生賞(Gll)、NHK杯(Gll)優勝という実績、血統的な裏付け、そして馬主の熱意あるバックアップもあり、種牡馬になるだけでなく、交配相手についてもそれなりの数と質を確保できたのである。このことは、冷遇されてきた阪神3歳S勝ち馬たちの中では、非常に幸運だったということができるだろう。

 父のリアルシャダイは輸入されてから現在に至るまでの長期に渡って多くの活躍馬を輩出し、1993年には、それまで11年間の長きにわたって日本のリーディングサイヤーとして君臨してきたノーザンテーストからついに首位を奪ったほどの名種牡馬だが、後継種牡馬たるべき存在にはなかなか恵まれなかった。産駒の中で競走実績は間違いなく随一だったライスシャワーがレース中の事故で非業の死を遂げてしまったこともあって、後継のエース格としてのイブキマイカグラの使命はより大きなものとなった。

 しかし、結論から言うならば、イブキマイカグラ産駒は、目立った実績を残すことができなかった。リアルシャダイのステイヤー色が強い血統は、父がリーディングサイヤーに輝き、イブキマイカグラが種牡馬入りする頃には、もう時代遅れとなりつつあったのである。同じ父を持つライスシャワーが、長距離Glを3勝もしながらステイヤー資質を評価されず、種牡馬入りのめどが立たない中で悲劇に見舞われたのと同じように、イブキマイカグラもまた、自らを自らならしめた血統を馬産界から拒絶され、否定されてしまったことは、残念であるとしか言いようがない。

 もっとも、イブキマイカグラの場合、2003年に種牡馬登録を抹消された後も、功労馬として余生を過ごすことができたのは、何よりの幸いである。阪神3歳Sの歴代勝ち馬たちの運命を見て来た後では、イブキマイカグラの生涯がいかに恵まれたものであるかを痛感せざるを得ない。やはりグレード制導入以降の阪神3歳Sの勝ち馬で、種牡馬として成功したサッカーボーイは、阪神3歳S(Gl)の他に・・・というより、それよりも大きなタイトルとされるマイルCS(Gl)優勝の看板があってのことだから、純粋に阪神3歳S(Gl)勝ちの種牡馬として評価されているわけではないと考えれば、なおのことである。

 ダイゴトツゲキ、カツラギハイデン、ゴールドシチー、ラッキーゲラン、コガネタイフウ…。歴代阪神3歳S(Gl)勝ち馬の戦いを見てきた本稿も、イブキマイカグラをもってついに終わりを迎えようとしている。しかし、たとえ戦場だった阪神3歳S(Gl)が人々から、そして歴史から忘れ去られたとしても、我々はそこで戦った戦士たちのことを決して忘れてはならない。優れた競走馬を選抜するという名目のもとに人間が作り上げた競馬界の体系の中で、その頂点とされたGlを制しながら、正当な評価、そして血統を後世に残す機会すら与えられなかったサラブレッドたちの存在意義を、我々はどのように語ればいいのだろうか。

 阪神3歳S(Gl)という歴史の中で戦い、勝利をつかみながら、我々に裏切られたかのように栄光なきまま去っていった彼らのことを、我々すら忘れ去ってしまったその時、我々の彼らに対する罪は、永遠のものとして固定されてしまう気がしてならないのである―。

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