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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

『相次ぐ悲運』

 コガネタイフウ陣営は、阪神3歳Sのあとも気を緩めることなくコガネタイフウの調教を続けた。当然コガネタイフウは、他のクラシック候補に比べて仕上がりも早く、4歳緒戦としてきさらぎ賞(Glll)から動くことができた。

 だが、なぜか阪神3歳S(Gl)馬の評価はあまり高くなかった。単勝270円の圧倒的1番人気に支持されたのはGl馬コガネタイフウではなく、4連勝中とはいえ重賞初挑戦に過ぎないハクタイセイだったのである。

 そして、このレースでコガネタイフウは先行したハクタイセイをとらえ切れず、1馬身4分の1差で人気どおりの2着に終わった。名誉挽回を図って次走にペガサスS(Glll、現アーリントンC)を選んだものの、ここでは1番人気に支持されながら、勝負どころの第4コーナーで他の馬の斜行の影響をもろに受け、落馬の憂き目を見てしまった。

 この時、鞍上の田原騎手は骨折の憂き目まで見てしまった。おかげで斜行の被害者であるはずのコガネタイフウは、クラシックを前にして、乗り替わりまで強いられる不運にも直撃された。

『幻のクラシック四強』

 このように、コガネタイフウにとってのクラシック前哨戦は、散々なものだった。皐月賞(Gl)では、コガネタイフウは「前走で競馬をさせてもらえなかった」という理由だけで、18頭立ての12番人気まで人気を落とした。しかし、本番を迎えてコガネタイフウはようやく調子を取り戻したか、今度こそ直線でしっかりと末脚を伸ばして、ハクタイセイ、アイネスフウジンからは離されたものの、この2頭とあわせて「三強」と目されていたメジロライアンとは僅差の4着に入った。

 この時点までの結果を考えると、きさらぎ賞でもハクタイセイの2着だったコガネタイフウは、「三強」からそれほど大きな差をつけられていたわけではない。時代のちょっとした気まぐれに恵まれれば、この年の春の牡馬クラシック戦線は、コガネタイフウも加えた「四強」といわれていたかもしれない。

 しかし、コガネタイフウはこのときの激走を立ち直りのきっかけとすることができなかった。彼の輝ける日々は、この時が最後となったのである。

 皐月賞の後、直行した日本ダービー(Gl)では、見せ場も作れず10着に敗れた。必勝を期した中日スポーツ4歳S(Glll)でも、5着に敗退した。

 しかも、コガネタイフウの悲運はそれだけにとどまらなかった。否、長い長い悲運のほんの始まりに過ぎなかったのである。放牧休養の後も、秋の初戦カシオペヤS(OP)でまたもや競走中止の憂き目をみて菊花賞(Gl)を断念し、この時点で「四強クラシック」と呼ばせるチャンスを永遠に失った。さらに、田原騎手もこのレースを機にコガネタイフウの鞍上を離れていった。

『残酷な現実』

 コガネタイフウは4歳中にもう一戦した後故障で戦列を離れ、5歳時をまるまる棒に振る羽目になった。6歳になってようやく復帰を果たした時、・・・そこにいたのは、既に西の3歳王者としてハクタイセイらと覇を競った強豪ではなかった。力が衰えたにもかかわらず行き場もなく、さすらうようにただ走りつづける孤独な1頭のサラブレッドだった。

 彼は、かつての栄光もむなしく、否、それがあるがゆえに余計に悲しく惨敗だけを繰り返した。彼は6歳から7歳にかけて10戦に出走したものの、勝ちを重ねるどころか、最高着順が6歳時の大阪城S(OP)の4着というていたらくだった。コガネタイフウは、敗退を重ねながらも、引退するべき時期を見失ってしまっていた。

 コガネタイフウがずるずると現役生活を続けるうちに、月日だけは残酷なまでに流れいった。月日が流れるということは、それだけコガネタイフウの栄光が風化していくことを意味する。気がつくと、コガネタイフウは既に種牡馬としての商品価値を失ってしまっていた。かつて何頭かの阪神3歳S(Gl)勝ち馬たちを襲った悲劇が、コガネタイフウの身にもまた襲いかかったのである。

『流れゆくGl馬』

 コガネタイフウは、長らく人気も着順も下から数えたほうが圧倒的に早いという状況が続いたが、それでも1993年5月9日、彼の名前を出馬表に見出して驚くファンは、いくらか残っていた。それまでは衰えたりとはいえ、腐ってもGl馬で、メインレース、またはそれに準じるようなレースばかりに出走してきたコガネタイフウだったが、この日は違った。コガネタイフウの名前は障害未勝利戦の出走馬として刻まれていたのである。・・・もっとも、障害レースはちょうど昼時に行われるため、

「昼食に出かけるため、どうせ見る気はない」

と出馬表すら見なかったため気づかなかったファンも多かっただろうが。

 中央競馬の歴史を振り返っても、Gl馬の障害挑戦というと、メジロパーマーのようにGlを勝つ前に走ったことがある、というならともかく、平地のGlを勝った馬がその後に障害レースを実際に走ったという例は、1965年の菊花賞馬ダイコーターや99年の秋華賞馬ブゼンキャンドル、2003年のNHKマイルC馬ウインクリューガー、2010年の菊花賞馬ビッグウィークなど、極めて限られている。

 コガネタイフウの場合、最後の平地レースとなった大阪城S(8着)から1ヶ月も経たぬうちの障害レース転向だった。果たして彼は、どれほどの飛越調教を積むことができたのだろうか。

 それでもコガネタイフウは、絶対能力だけで、このレースを大差勝ちした。阪神3歳Sから数えて実に3年6ヶ月ぶりの勝利だった。しかし、それで快進撃が始まるほど障害の世界も甘くはなく、コガネタイフウはその後障害400万下を2戦したものの、勝ち馬から大きく離されての惨敗に終わった。

「1993年7月11日障害400万下D3000m重9頭立て9着」

というレース結果は、コガネタイフウが中央競馬に残した最後の足跡となった。

 ・・・と言っても、コガネタイフウの戦いの日々は、まだ終わらなかった。コガネタイフウの行き先は「地方」、つまり地方競馬への転厩だったのである。

 ダートGlならいざ知らず、芝のGlを勝った後に地方競馬へ転出したGl馬となると、94年ジャパンC馬マーベラスクラウン、02年宝塚記念馬ダンツフレーム、02年朝日杯馬エイシンチャンプなどがいるものの、決して一般的とは言えない。しかも、コガネタイフウの場合、地方転出時に馬主そのものが交代している。地方競馬に売り飛ばされたコガネタイフウは、7歳にして馬主、調教師、環境、その他すべてが変わってなお、老骨に鞭打って走り続けた。

『果て無き戦いの日々』

 地方競馬に新天地を求めたコガネタイフウだったが、いくらGl馬とはいっても、年齢が年齢である。地方転入時、既に阪神3歳S制覇からは4年が経過した後のことで、上がり目を望むには、彼はあまりにも老いていた。しかも、このときコガネタイフウの脚部はもはやボロボロで、既に満足に走れる状況にはなかった。

 彼が地方競馬のレースに出走したのは、8歳になってすぐ、1994年1月のことだった。場所は、足利競馬場である。中央のGl馬で、しかも半年前に障害戦とはいえダートでの勝ち星もある。中央競馬に比べて馬のレベルが低いと言われる地方競馬なら、あるいは・・・。そんなほのかな望みもあって、コガネタイフウは6頭立ての2番人気に支持された。しかし、結果は無残な最下位だった。その後中1週で宇都宮競馬場に転戦するも、またも1頭しか負かせないブービー負けに終わった。

 哀れコガネタイフウは、この2戦の敗北で、北関東の調教師にもあっさりと見切りをつけられてしまった。新天地として選んだ北関東競馬からも、腰を落ち着ける暇すらないままに追われた彼の次なる行き先は、競馬の中心からはるか離れた南国の高知競馬だった。

『往きてまた還らず』

 当時の高知競馬といえば、数ある地方競馬の中でも、そのレベルはかなり低いと言われていた。その高知に流れ着いたコガネタイフウが最初に出走したレースは、「C32」となっている。筆者は高知競馬については知識が乏しいが、若干の知識をもつ他の地方競馬のクラス分けとの対比、そして頭の「C3」から察するに、おそらくは限りなく最下級条件に近いクラスと思われる。ここでは中央Glの看板もまだ生きていたのか、1番人気に支持されたコガネタイフウは、5着と人気は裏切ったものの、久々に賞金にありついた。

 その後6着を一度挟み、今度は「C34」で2着に入った。しかし、それはコガネタイフウ最後の輝きとなった。・・・中央競馬で一度は世代の頂点に立った馬に、この程度で「輝き」というのは失礼にあたるかもしれない。しかし、次のレースで8着に沈んだコガネタイフウは、そのレースを最後に二度とレースに出走することはなかった。デビューから5年以上が経過し、ボロボロになるまで走り続けたコガネタイフウの現役生活は、ようやく終わりを告げたのである。

 コガネタイフウの戦績は、中央競馬が平地24戦3勝、障害3戦1勝、地方競馬が6戦0勝というものだった。かつて日本競馬の頂点にある中央競馬で活躍し、阪神3歳S(Gl)を制覇して西の3歳王者に輝いたコガネタイフウだったが、彼が最後に流れ着いたのは高知競馬の最下級に近い条件クラスだった。3歳時に本賞金のみで61,223,000円を稼ぎ出した彼が、最後に出走した8歳時に得たのは、わずかに270,000円だったという。

 しかし、戦い終えたコガネタイフウを待っていたのは、果たして戦いと無縁な安息の日々だったのだろうか。現役生活を終えたコガネタイフウが種牡馬登録されることは、ついになかった。その後のコガネタイフウの消息は伝わっていない。こうして、阪神3歳Sの覇者がまた1頭、歴史の闇へと消えていった。

『悲しき末路』

 コガネタイフウは種牡馬になれなかったが、Gl馬である彼に、その資格がまったくなかったはずはない。現に、彼の全兄コガネターボ、全弟のコガネパワーは、種牡馬になっている。黄金牧場がコガネタイフウを生産するきっかけを提供したともいえる3歳上の全兄コガネターボに重賞勝ちはなく、1歳下の全弟コガネパワーも、京都4歳特別、中日スポーツ杯(Glll)で重賞を2勝し、日本ダービーで4着に入っているとはいえ、通算成績は6戦3勝である。Gl勝ちがない2頭の全兄弟が種牡馬入りを果たしているにもかかわらず、Glを勝って実績では一番上であるはずのコガネタイフウだけ種牡馬入りできなかったという現実は、競走馬の引退時期の難しさを物語っている。

 もっとも、種牡馬入りした全兄弟たちも、幸福な馬生を送れたとは言い難い。まずコガネターボは、厳しい生存競争を勝ち残る魅力が足りなかったこともあって、ついに1頭も産駒を得ることのないまま、1994年に11歳の若さで死亡した。また、コガネパワーも初年度産駒が5頭というから、期待のほどは知れていた。結局彼も、初年度産駒のデビューを見ることすらできぬまま、96年を最後に種牡馬生活を引退した。彼の産駒から活躍馬が出ることはなく、その系譜は途絶えた。

 実績が劣るとはいえ、全兄弟たちの成績がこれでは、まったく同じ血統のコガネタイフウが種牡馬入りしたとしても、結果は見えていただろう。しかし、今の競馬界は種牡馬入りできなかった名馬にあまりに冷たい。彼は果たしてどのような運命をたどったのか。これほど情報が発達した現代において、Gl馬である彼の行方をまったくつかめないということからすれば、彼のたどった道は、おおよそ想像がつく。

 1987年生まれのコガネタイフウは、メジロマックイーンやメジロライアン、アイネスフウジンらと同期にあたる。その世代の中で、一度はGlという最高峰を極めたはずのコガネタイフウ。その彼が、わずか数年後に消息を絶ってしまうとは、時の流れの残酷さを感じずにはいられない―。(この章、了)

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