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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

『我が道を往く』

 レース前のゲート入りでのカツラギハイデンは、ゲートを少し嫌がるしぐさを見せたものの、さほど深刻な事態にはならず、無事にゲートへと収まった。

 ゲートが開くと、カツラギハイデンはスムーズにスタートしたものの、やがて位置を下げると、中団へと陣取った。それまでのカツラギハイデンは、すべて好位からの抜け出しで結果を残してきていただけに、双眼鏡でレースを見ていた土門師は、

「ずいぶんゆっくり行ってくれるな」

とイライラを隠せなかったという。

 しかし、ぐずついているように見えたこの位置は、ハイペースを見越した西浦騎手の作戦だった。強引にハナを切ったハギノビジョウフの鞍上は伊藤清章騎手であり、ハギノトップレディやハギノカムイオーといった「華麗なる一族」の主戦騎手であるとともに、強引なまでの逃げに定評のある勝負師だった。そんな彼が一気に行ったことで、レースは前半4ハロンが46秒8という激しい流れになっていた。「カツラギハイデンが遅い」と見えたのは、まわりが速すぎたことによる錯覚に過ぎなかった。

 ハイペースを作り出した張本人のハギノビジョウフの足どりは、レースの後半に入っても、力強いままだった。そのため他の騎手の中には、本当のペースに気づかない者も多かった。先行してハイペースについていった騎手たちが、第3コーナーから第4コーナーにかけてようやく自分の馬の限界に気づき、愕然とし始めたあたりでも、カツラギハイデンの手ごたえは十分残っていた。この時西浦騎手が考えたのは、「いつ抜け出そうか」という問題だけだった。

『勝利を我が手に』

 直線に入ると、西浦騎手はいよいよ仕掛けた。もっとも、ずっとインコースを走っていたカツラギハイデンの場合、前もごちゃついて、そうすんなりと抜け出す、というわけにはいかない。西浦騎手が仕掛けた時、ちょうど前の馬がよれた時には、周囲をひやりとさせた。実際、カツラギハイデンはこの時一瞬ながら、もたついてしまった。

 しかし、その後すぐに態勢を立て直し、内を割って抜け出してしまえば、カツラギハイデンの脚色は明らかに他の馬たちを圧倒していた。粘るハギノビジョウフも、追い込むヤマニンファルコン、ノトパーソも、カツラギハイデンの勢いには及ぶべくもない。ハギノビジョウフを一気にかわしてその差を広げたカツラギハイデンは、後方から直線だけで2番手まで押し上げてきたノトパーソの追撃をまったく問題にせず、1馬身4分の3差をつけて優勝した。2着以降とは「永遠の差」があるといっていい、内容の濃い勝ち方だった。

「現時点では、カツラギエースよりもはっきりと上」

 レース後の西浦騎手は、いとも簡単にこう言ってのけた。3歳時のカツラギハイデンは、ソエに悩まされっぱなしだったにもかかわらず、阪神3歳Sを完勝してしまった。ソエというのは、成長して馬体が固まってくるにつれ、自然と治まってくる。実際に、カツラギハイデンのソエは、この時期は快方へと向かっていた。もともと晩成、長距離血統のカツラギハイデンならば、4歳になってからさらなる飛躍を見せたとしても、不思議ではない・・・。

「この馬で、クラシックでの関西馬の連敗を止める。」

 関西の競馬ファンの夢が、現実性を持ったものとして輝きを増してきたのも、ある意味やむをえないことだった。

 この年の最優秀3歳牡馬としては、朝日杯3歳S(Gl)を勝ったダイシンフブキが130票を集めて圧勝した。カツラギハイデンに入った票はわずかに7票だったが、これはダイシンフブキが無敗の4連勝であるのに対してカツラギハイデンが4戦3勝で6着の大敗があること、重賞の実績もカツラギハイデンは阪神3歳Sだけだったのに対し、ダイシンフブキは朝日杯だけでなく京成杯3歳S(Gll)も圧勝していることを考えると、やむをえないことだっただろう。

 だが、カツラギハイデンにかかる期待は、こうした表面的な部分の評価とは裏腹に、その将来性をおおいに嘱望されていた。

『躓きの石』

 明け4歳になったカツラギハイデンは、初戦としてきさらぎ賞(Glll)を目標に調整された。もっとも、これはあくまでも通過点であり、当然のことながら、最終目標はもっと先にあった。西の3歳王者となったカツラギハイデンが目指すものは、全国統一、すなわちクラシック制覇以外になかった。

 当時の関西馬の評価がいかに低かったかは、この年は中京開催だったきさらぎ賞で1番人気に支持されたのがカツラギハイデン(2番人気)ではなく、前走京成杯を勝ってきた関東の牝馬ダイナフェアリーだったことからもうかがえる。しかし、カツラギハイデンは、血統的には早熟のマイラーではなく、距離が伸びていいタイプである。このまま順調に成長し、関西馬の大将格としてクラシックでの不名誉な連敗を止め、「弱い関西馬」の汚名を返上することを期待されていた。きさらぎ賞はそのための戦いの第一歩として、軽く勝っておきたいレースだった。

 ところが、カツラギハイデンはここでいきなりつまづいてしまった。初戦のきさらぎ賞で、スタート直後に楽鉄した上、いきなり引っかかってしまい、4着に敗れてしまったのである。勝ち馬フミノアプローズから5馬身も離されての完敗だった。

 勝ったフミノアプローズは、同じ土門厩舎の所属馬であり、カツラギハイデンにとってはステーブル・メイトだった。この結果は土門師やフミノアプローズに騎乗した丸山勝秀騎手にも意外なものだったようで、勝利のコメントは、

「現時点で比較すると、やはりまだカツラギハイデンの方に一日の長を感じる」(土門師)
「まさか、カツラギハイデンに勝てるとは思いませんでした」(丸山騎手)

というものだった。

 それでも、土門師や西浦騎手は、カツラギハイデンへの評価を下方修正する必要を認めなかった。この日のカツラギハイデンの仕上げは、先を見据えて7、8分程度だった。そのため土門師は、カツラギハイデンのクラシック参戦という当初の予定に変更を加えることなく、フミノアプローズとともに東上させることにした。

「本番が近くなれば、きっと立ち直ってくれる・・・」

 カツラギハイデンを取り巻く人々は、そう信じていた。

『覚めない悪い夢』

 だが、東上したカツラギハイデンは立ち直りのきっかけをつかめないまま、苦しい戦いを強いられることになった。

 スプリングS(Gll)では2番人気に支持されたカツラギハイデンだったが、先行しながら直線ずるずる後退し、8着へと沈んだ。重馬場を気にしたとはいえ、なんの見せ場もない無残な敗北だった。

 それでも阪神3歳S勝ち馬としての本賞金があったため、皐月賞(Gl)出走こそ果たしたものの、今度は良馬場だったにもかかわらず、21頭だての18着に大敗した。こんな無残な数字では、道中他馬と接触したといっても、単なる言い訳にしかならない。

「(2着、関西馬最先着の)フレッシュボイスとあんなに(2秒7)差があるわけはないのに・・・」

 西浦騎手は首をかしげたが、原因は分からないままだった。調教を見る限り、目に見えて調子が悪いわけではない。それどころか、デビュー以来悩まされていたソエはほぼ治まっており、むしろ一気に伸びても不思議ではないはずだった。それなのに、着順は逆に悪くなる一方である。これでは手の打ちようがなかった。

 続いて出走したNHK杯(Gll)では、重馬場の中、直線だけで10頭を差す脚を見せた。・・・とはいっても、最後方からでは焼け石に水で、7着に終わった。有力馬が皐月賞上位からダービーへ直行する裏で行われる、層の薄いトライアルでこの結果に終わったということは、カツラギハイデンに良化の兆しは見られない、ということにほかならない。こんなことでは、相手関係が格段に強化されるダービー本番では勝負にならないだろう・・・。

 土門師は、ここで日本ダービー(Gl)をすっぱりとあきらめ、カツラギハイデンを放牧に出し、秋に備えることにした。放牧によってカツラギハイデンの心機を一転し、今度こそ秋の飛躍を図るためだった。

 しかし、秋にカツラギハイデンがターフに還ってくることはなかった。カツラギハイデンは、屈腱炎を発症し、長期休養を強いられたのである。4歳以降のカツラギハイデンにとって、その戦いとは、まるでさめない悪い夢のようだった。

 ちなみに、カツラギハイデンが離脱したクラシック戦線では、皐月賞、ダービーを関東馬に譲ったものの、ダービー馬ダイナガリバーらを地元に迎え撃っての菊花賞(Gl)では、久々に関西馬が優勝して関西勢の牡馬クラシック連敗にストップをかけた。ダービー馬ダイナガリバーとの直線の死闘を制して関西の悲願を果たしたその勝ち馬は、阪神3歳Sの頃には未勝利のまま骨折して休養していたメジロデュレンだった。その一方で、「関西の強い牝馬たち」が挑んだ牝馬三冠路線は、関東馬の壁、というよりメジロラモーヌ1頭の壁によってことごとく跳ね返され、当時としては史上ただ一頭だった「三冠牝馬」の誕生を許す結果となっている。カツラギハイデンが3歳王者に輝いた時点で、翌年のクラシック戦線について、誰がこのような結果を予想したであろうか。

『西の地に没す』

 4歳以降のカツラギハイデンを見てみると、まるでダイゴトツゲキがたどった馬生をそのまま後追いしたかのように苦難の道を歩んでいる。そんな彼を待っていたのは、やはりダイゴトツゲキと同じ屈辱だった。本賞金が2300万円だったカツラギハイデンも、5歳夏の降級により、Gl馬にして準オープン馬という悲哀をなめることになったのである。競馬四季報では、本拠地が異なる馬は、オープン馬しか紹介されない。こうして当時の競馬四季報関東版から、カツラギハイデンの名前が消えた。

 しかし、カツラギハイデンにはダイゴトツゲキと違った点がひとつあった。彼は、そんな状態になってなお、戦場へと復帰したのである。

 カツラギハイデンの休養は、NHK杯の後、約1年間の長きにわたった。彼が復帰を果たしたのは、翌年の真夏のローカル開催、北九州記念(Glll)だった。この時はもう降級になっているはずだから、その気になりさえすればカツラギハイデンは、準オープン戦に出ることもできたはずである。それでも「格上挑戦」で重賞を復帰戦に選んだのは、Gl馬としてのせめてもの意地だったのかもしれない。

 もっとも、真夏のローカル開催では、一流どころの馬は夏休みに入ってレースに出走しないから、重賞とはいっても、相手関係はたかが知れている。当時の北九州記念は、賞金額にもとづく別定戦であり、カツラギハイデンの斤量は56kgどまりだった。1頭だけのGl馬という実績、斤量の有利さ、そんな中ではカツラギハイデンは、とてつもない人気を背負わされても不思議はない、いや、背負わなければならない存在だったにも関わらず。

 だが、ファンは冷酷な目で、目の前の現実だけを見つめていた。中央開催の重賞では歯が立たない下級オープン馬、あるいは条件馬もどきがほとんどを占める中で、カツラギハイデンは11頭立ての8番人気にすぎなかった。小倉ということは、馬券を買うファンはほとんど関西のファンのはずだが、既にカツラギハイデンは、本拠地関西のファンからすら忘れ去られた存在となっていた。

 そして、カツラギハイデンに、そんな評価をはね返すだけの力は残っていなかった。先行しながらも直線では見せ場なく8着に敗れ、人気どおりの結果に収まってしまったのである。その結果は、彼に対する厳しい評価が、いまや正当なものとなり果てたことを証明するものだった。夏の小倉競馬場をさびしく引き揚げていくカツラギハイデンの後ろ姿は、かつて世代の頂点に立ったGl馬のそれではなく、落日の悲運にあえぐ準オープン馬のそれにすぎなかった。

『昔の光、今何処・・・』

 悲しき大器カツラギハイデンは、北九州記念の後、またしても屈腱炎を再発してしまった。しかし、もはや事実上Gl馬の名誉を失ったに等しいカツラギハイデンが種牡馬への道を切り拓くためには、もう一度レースで結果を出さなければならない。ボロボロになった脚でもなお現役にこだわり続け、そのたびに症状を悪化させていった。レースに出走することすらかなわぬまま、ただ月日だけが流れていった。

 復帰の夢破れたカツラギハイデンの現役登録が抹消されたのは、1990年夏のことである。結局彼は、北九州記念の後再び戦場へ帰ってくることはなかった。引退のとき、阪神3歳Sの栄光からは4年半、最後に出走した北九州記念からももう3年が経過し、カツラギハイデンは既に8歳になっていた。カツラギハイデンの新しい用途は、種牡馬ではなく、「乗馬」となっていた。しかし、その時既に忘れられたGl馬の行方に興味を示す人は、ほとんどいなかった。

 カツラギハイデンのその後の消息については、当時の雑誌などをあたったものの、行き先はおろか引退の報すらろくに記述がなく、彼の行方は現時点でもまだつかめていない。(この章、了)

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