阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~
『終わる夢』
鞍上が転々とした末、河内騎手とともに臨むことになった菊花賞の当日、ゴールドシチーは、ダービー馬メリーナイスに次ぐ2番人気に支持された。メリーナイスは秋初戦のセントライト記念(Gll)も勝っていたことから、1番人気に推されるのは当然としても、ダービー4着のゴールドシチーの秋の戦績は、神戸新聞杯3着、京都新聞杯失格(3着入線)と決して胸を張れる戦績ではない。これを見ただけでは、2番人気という支持は出てこないはずである。しかし、2度前哨戦を叩いたことで、菊花賞を前にゴールドシチーの体調は目に見えて上向き、春のクラシックで見せた実力も認められての結果が、この日の2番人気だった。
ゴールドシチーは、ファンの支持に応えるかのように、積極的なレースを進めていった。レースは力のある逃げ馬の不在によってスローペースとなり、メリーナイスなどは、かかりにかかって自滅してしまった。だが、ゴールドシチーは好位につけており、折り合いもぴったりついていた。勝負どころで気を抜く悪い癖も出さないまま、今度こそ正攻法で実力を出し切る走りを見せていた。
しかし、この日の出走馬の中には、彼以上に実力を出し切った馬が1頭いた。皐月賞を圧勝した後に脚部不安を発症して休養に入り、この日は半年ぶりのぶっつけ本番で菊花賞に臨むサクラスターオーだった。2周目の下り坂から馬自身の意志で進出を開始したサクラスターオーは、ゴール板を目指し、懸命に走った。
最後には、早めに仕掛けたサクラスターオーは、さすがに脚をなくして止まったかに見えた。ゴールドシチーは、その間に一気に差を詰めていった。・・・だが、3000mの長丁場は、追われる者だけでなく追う者からも、スタミナを奪い尽くしていた。ゴールドシチーの末脚は、サクラスターオーとの差を半馬身ほど残したところで、ぴたりと止まってしまったのである。こうして京都競馬場は、
「菊の季節にサクラが満開!」
という名シーンの舞台となった。「奇跡の二冠馬」が誕生した瞬間とは、同時にゴールドシチーがクラシック無冠に終わった瞬間でもあった。
『早すぎた限界』
ゴールドシチーは、菊花賞の後も鳴尾記念(Gll)へと出走した。ここでは1番人気に支持されたゴールドシチーだったが、菊花賞の疲れが残っていたのか、それとも56.5キロのトップハンデが響いたのか、人気を裏切って6着に沈んでしまった。ファン投票では、有馬記念にも出走可能なところに位置していたゴールドシチーだったが、鳴尾記念の敗北を受け、有馬記念は回避してそのまま休養に入ることになった。敗因を馬の疲労とみた清水師は、来年に向けての立て直しを図ったのである。
ゴールドシチーの4歳時は、皐月賞2着、ダービー4着、菊花賞2着と三冠レースすべてで健闘というに足る成績を残しながら、ついに未勝利のまま終わった。ちなみに、ゴールドシチーが回避した有馬記念では、皐月賞、菊花賞と2度にわたって彼のクラシック戴冠の悲願に立ちはだかり、そして阻んだライバルの1頭であるサクラスターオーが、レース中の事故で競走生命、そして彼自身の生命をも失っている。
古馬となり、ゴールドシチーが競馬場へと帰ってきた時、彼らの世代の最強馬は既にターフを去っていた。寂寥感を否定できない彼らの世代の中で、ゴールドシチーには4歳時に勝る活躍が期待されていた。
だが、ゴールドシチーへの期待は、むなしいものに終わった。4歳時に比べるとインパクトの薄い成績しか残せなかった彼は、器の限界を露呈したのである。
ゴールドシチーの5歳以降の戦績は、9戦未勝利に終わった。同じ未勝利といっても皐月賞、菊花賞2着を含んでいた4歳時に比べると、5歳時の京都大賞典(Gll)と6歳時の産経大阪杯(Gll)で3着したのが最高着順、Glでは掲示板が5歳時の天皇賞・春(Gl)5着の1度きり、という内容が薄く感じられるのも、やむを得ないことだろう。5歳以降のゴールドシチーの急激な衰えは、単なる早熟ゆえの体力的なものだったのか、それともライバルのサクラスターオーを失ったことからくる、気力の減退ゆえだったのか。
かつての主戦騎手だった本田騎手の鞍上への復帰も、復活のきっかけとはならないまま、ついにゴールドシチーは、6歳時の宝塚記念(Gl)10着を最後に現役を引退することになった。通算成績は20戦3勝で、結局阪神3歳Sがゴールドシチーの最後の勝ち星となった。
『嗚呼、Gl馬』
ゴールドシチーの引退後については、資料も比較的多く、詳細な「その後」を伝えることができる。
こうして競走生活を引退することになったゴールドシチーだったが、通算成績20戦3勝、Glとはいっても、いわゆる八大競走等と比べて格式は低いとされる阪神3歳Sが唯一の重賞勝ちであり、さらに4歳以降はついに一度も勝てなかったという事実は、ゴールドシチーの種牡馬としての商品価値を大きく傷つけていた。一方、ゴールドシチーがGl馬であること、そして4歳以降は勝てなかったとはいっても、皐月賞、菊花賞で2着、ダービー4着に健闘しているといった、彼に有利な事実は軽視された。
もっとも、彼と同じ程度、あるいはもっと悪い競走成績しか残せなかったにもかかわらず、種牡馬入りしている馬は少なくない。ただ、そうした馬には「良血」という別の武器があるのが普通である。ゴールドシチーには、競走成績の不足を補ってくれるはずの「血統」がなかった。牝系が名血というわけでもなかったし、父ヴァイスリーガルの後継としても、その頃既にノーザンダンサーの直系種牡馬が過剰になりつつあった日本の血統情勢では、もうゴールドシチー「程度」では特別な売り物にならなかった。
戦績、血統とも「中途半端」とみなされたゴールドシチーに、種牡馬としてのチャンスが与えられることはなかった。種牡馬としての供用先が見つからなかったゴールドシチーは、宮崎競馬場で乗馬としての調教を受けることになった。彼もまた、第二の馬生としては、多くのGl馬が歩む種牡馬としての道ではなく、乗馬としての道だったのである。
もっとも、種牡馬になれなかったことが即、不幸である、とは言い切れない。日本では、毎年何十頭もの新種牡馬が馬産地へ帰っていき、もしくは輸入されてくるものの、その3分の1は、5年後には種牡馬生活を引退しているのが現実である。Gl馬として種牡馬になったものの、ろくに繁殖牝馬と交配してもらえないまま廃用となり、ひどい時には行方不明となってしまうことも、そうまれな話ではない。
また、ガラスの脚で極限のスピードを追及する競馬の宿命として、現役時代のライバルであったサクラスターオーが、またマティリアルがそうであったように、競争中の事故が原因で命を落とす馬も多い。レース中に命を失うことのなかったゴールドシチーは、種牡馬になったとしても人気になるとは考えにくい以上、早めに乗馬としての生活に馴染んで天寿をまっとうできれば、レース中の事故で非業の死を遂げたり、中途半端に種牡馬になって数年後に種牡馬失格の烙印を押されたりするよりははるかに幸福だったことだろう。
だが、ゴールドシチーは新しい環境に馴染むことができなかった。現役時代に彼の武器となった激しい気性は、乗馬としての生活には最大のネックとなってしまったのである。
『悲しき抵抗』
乗馬としての調教を受けるために宮崎競馬場にやって来るサラブレッドの多くは、競走馬を引退した馬たちだった。彼らも、最初は競走馬時代の習性が抜けないのか、他の馬と並んで歩くことを拒んで暴れたり、突然走り出したりすることは珍しくないという。だが、そんな彼らも宮崎競馬場にしばらくいるうちに、新しい環境に次第に慣れてきておとなしくなるのが普通である。彼らに対する乗馬としての調教が可能になるのは、その後のことだという。
しかし、ゴールドシチーの場合、乗馬としての訓練、そして新しい環境に、いつまでも慣れることがなかった。
唯我独尊タイプだったというゴールドシチーは、他の馬との集団生活になじめなかったようである。宮崎競馬場では、人員、設備の都合上の理由から馬を集団管理していたため、そこには自然と馬同士の群れ、序列ができてくる。群れの序列では、新参者は一番のしたっぱとして、目下の扱いを受ける。これは、馬に限らず群れで生活するほとんどの野生生物に共通する掟といっていい。
この掟には、たいていの馬が最初に痛い目にあわされて戸惑うという。もっとも、普通の馬は2、3日もするとこの掟を理解し、従うようになる。最初はしたっぱとしての扱いに甘んじつつ、あくまでも掟の中で自分の実力を認めさせ、少しずつ「出世」していこうとする。
だが、ゴールドシチーは違った。最初からしたっぱとしての扱いを一切拒み、掟を無視して誰彼かまわずけんかを吹っかけていった。そんな異端者が仲間からどう見られるか・・・それは、人間の世界を考えれば明らかだろう。ゴールドシチーは、自然と馬の中で孤立し、いじめられることが多くなっていったという。
当時の宮崎競馬場の場長は、この時期のゴールドシチーについてこう言っている。
「あの子は新しい生活にいつまでたっても慣れようとしなかったし、慣れようと努力してもくれなかった・・・」
当時宮崎競馬場で調教を受けていた乗馬たちの中で、Gl馬であるゴールドシチーの戦績はずば抜けたものだった。幼駒時代からプライドが高かったという彼の性格も、妥協と融和の妨げになったのかもしれない。
ゴールドシチーがただの癇馬ではなかったことの証明に、彼は人間にはよく慣れていたという。彼を訪ねてきた見知らぬファンに対しては、いつも愛想をふりまいて喜ばせていた彼だけに、新しい生活に対する必死の抵抗は、彼の競走馬としてのプライドゆえだったとしか考えられない。
悲しいかな、プライドが必ずしも幸福をもたらさないのは、人間だけではない。他の馬にいじめられるようになったゴールドシチーの声は、鳴き声ではなく泣き声のようだったという。彼のその声は、孤独なGl馬の
「どうしてオレがこんなところでこんな目にあわなければいけないのか」
という心の叫びだったのかもしれない。
『南国に果つ』
ゴールドシチーの乗馬生活の終わりは、突然やってきた。ゴールドシチーが宮崎競馬場にやってきて約半年が過ぎた平成2年5月1日、悲劇は起こった。
その日のゴールドシチーは、いつもと同じように他の馬たちと一緒に放牧に出されていた。メーデーで休みを取った従業員が多かったことから人の目が行き届きにくかったことを除くと、何の変哲もなく1日が過ぎてゆくはずだった。
しかし、隣接する社宅から馬たちを見ていた従業員の家族が洗濯物を干すためにベランダに出たその時、とても悲しそうな馬の声がしたという。あわててその人が牧場の方を見てみると、1頭の馬が右前脚を宙に浮かせて鳴いて―否、泣いていた。連絡を受けた場長らがあわてて駆け寄ってみると、そこには3本脚でかろうじて立ちながら、大きな眼一杯に涙をためたゴールドシチーの姿があったという…。
応急処置の後、翌2日に右前脚のレントゲンが撮影されたものの、右前上腕部の骨折により予後不良という診断が下された。その日のうちに、ゴールドシチーに安楽死の措置がなされた。
『戦いに生きて』
ゴールドシチーの骨折の原因は、骨折の瞬間を目撃した人がいないため、推測に頼るよりほかにない。他の馬に蹴られた、不注意で柵にぶつかった、その他いろいろな理由が考えられるものの、上腕部という不思議な骨折の個所、そして発見されたときの状況からは、いずれも考えにくいという。
「ゴールドシチーは自殺したんだ」
という説が語られるのも、それゆえである。
現役時代の彼を管理した清水師は、彼の死の状況を知って
「一生わがままを貫き通して死んでいったんやろうね」
と漏らしたという。現役時代もわがままで、馬のくせに早起きが大嫌いだったため、他の馬が朝の調教をとっくに終えた午前10時を過ぎないと、決してトレセンに現れない「午前10時の男」として有名だったゴールドシチーは、自分が現在置かれた状況に我慢がならず、抗議するために自ら死を選んだということだろうか。
また、「サクラスターオーやマティリアルの後を追った」という切り口で彼の死を語る向きも少なくない。4歳戦線をトップクラスの戦績でにぎわしたゴールドシチーが「ただの馬」になってしまった時期は、ちょうどサクラスターオーの死の時期と一致する。ダービーでの謎の後退も、その気で見れば最大のライバルのサクラスターオーの姿がないことを知って走る気をなくしたように見えなくもない。1頭のライバルを永遠に失ったことで闘志を失ってしまったゴールドシチーだが、自分がターフを去った後も戦場で戦いつづけたもう1頭のライバル・マティリアルも京王杯AH(Glll)で最後の勝利と引き換えに戦場に散ったことを知り、戦いに生きる宿命を背負ったサラブレッドでありながら、ライバルに死に遅れて死に際を失った己への悔恨の思いにとらわれてしまったのかもしれない。
―これらの説はさておくにしても、1987年の皐月賞2着馬が、皐月賞馬から2年、同3着馬からはわずか半年遅れで、早すぎる死を遂げたことだけは、まぎれもなき歴史上の事実である。享年7歳。(この章、了)