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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

『3歳王者を目指して』

 続く京都3歳S(OP)でも、ダイゴトツゲキは強い競馬を見せた。既に2勝をあげたオープン馬であり、大器と噂されていたパトリオットを、またも好位から差し切る競馬で半馬身抑えて優勝し、見事2連勝を飾ったのである。

 2戦2勝と勢いに乗るダイゴトツゲキは、G制度の導入によってこの年からGlに格付けされたばかりの阪神3歳S(Gl)へと駒を進めることになった。

 第36回を迎えた阪神3歳Sは、この年からGlに格付けされた影響もあってか、最初は多くの馬の登録があったものの、故障があったり、裏番組として組まれていた中京での3歳戦に回ったりしたため、結局、当日出走する顔ぶれは10頭しか残らず、Glとしては寂しい滑り出しとなった。

 一番人気は2戦2勝のニシノバルカンで、戦績はダイゴトツゲキと同じだったものの、単勝190円という広い支持を集めた。直前の追い切りで見せた抜群の動きが高く評価されたということである。一方のダイゴトツゲキはというと、2番人気とはいえ単勝400円で、票数もニシノバルカンの半分以下だった。他の出走馬の中から馴染みのある名前を探してみると、後に高松宮杯など重賞を3勝して種牡馬入りし、種牡馬としても菊花賞2着のトウカイパレスを出したランドヒリュウの名前を見つけることができる。

『戦士の宿命』

 ダイゴトツゲキは、スタートしてすぐに好位にとりついた。持ち前の先行力で粘りきるスタイルを得意とするダイゴトツゲキにとっては、最高の形でのスタートとなった。

 だが、レースが始まってすぐ、ダイゴトツゲキの好スタートとは無関係なところで、波乱と悲劇が待っていた。第2コーナーで騎手を振り落とした1頭が、そのまま馬群からみるみる置いていかれる。故障発生によって競走を中止したその馬は、1番人気のニシノバルカンだった。1番人気の突然の事故に、場内は不気味な静寂に包まれた。

 この日のニシノバルカンについて、レース前の様子を見ていたある騎手は

「あの馬のリズムは良くないね」

と評していたという。プロの眼にのみ分かる不安は、無惨な形で的中してしまった。

 しかし、1頭が脱落しても、他の馬たちが戦いをやめるわけにはいかない。ニシノバルカンの故障のせいで、Gl特有の盛り上がりとは無縁となってしまったものの、レース自体は流れを止めることなく淡々と進んでいった。

『不安』

 ダイゴトツゲキは3、4番手から次第にペースを上げて2番手に押し上げていった。スタートから逃げたマルヨプラードを見ながら、思いどおりのレースができていた。

 しかし、ダイゴトツゲキの鞍上・稲葉的海騎手は、前を行くマルヨプラードの作田誠二騎手の様子を見て、大きな不安にとらわれていた。マルヨプラードの手ごたえは、想像以上に楽なようだった。

 マルヨプラードは、レース前にはまったく注目されていなかった伏兵であり、10頭だての9番人気で、まったくマークされていなかった。だが、その人気薄ゆえに、マルヨプラードはスタートから他の馬にまったく絡まれることもなく、自分のペースでレースを作ることに成功していた。

 ダイゴトツゲキの鞍上稲葉騎手は、当時30歳で、年齢的には中堅からベテランの域に達しつつあった。乗り鞍になかなか恵まれず苦労していた稲葉騎手にダイゴトツゲキを与えたのは、師匠である吉田師の強い意向だった。稲葉騎手にとって、このレースは師の顔を潰さないために、負けてはならないレースだった。

「早めにつかまえないと、逃げ切られる? 」

 このレースの大切さゆえに、稲葉騎手の胸に迷いが走った。

『師の教え』

 そんな稲葉騎手の不安を押しとどめたのは、レース前に受けた、吉田師からの指示だった。

「道中は2、3番手につけて、直線に入るまで追うなよ・・・」

 このとき吉田師は、体調を崩して入院していたが、自分の管理馬に自分の弟子が乗ってGlに挑むということで、入院先を抜け出してわざわざ阪神競馬場へと駆けつけていた。そんな吉田師は、いつも勝負をあせって失敗しがちな稲葉騎手に対して、こうたしなめていたのである。

 ダイゴトツゲキという馬は、なし崩し的に脚を使うと、最後に切れを失って失速してしまう。師の教えを思い出した稲葉騎手は、すんでのところで追い出しをやめ、勝負の仕掛けを遅らせることにした。

『意外性の馬』

 直線に入ると、稲葉騎手の危惧したとおり、マルヨプラードはもう一度伸びてきた。それまで自らレースを作ってきた強みを生かし、残された最後の力をふりしぼって逃げ込みを図ったのである。マルヨプラードは後続から一歩抜け出し、ウイロウィック産駒によるGl制覇は目前に見えた。

 しかし、マルヨプラードを最後にクビ差とらえたのは、残り1ハロンで一気に伸びたダイゴトツゲキだった。吉田師の言いつけを守って最後の最後まで追い出しを遅らせて待った成果が、最後の瞬間の一気の伸びにつながったのである。

 稲葉騎手は、勝利騎手インタビューで涙ながらに喜びを語った。彼にとって、この日の勝利は5年ぶりの重賞制覇であり、感慨もひとしおだった。稲葉騎手のこの年の騎手成績を見ると、83回騎乗して8勝、騎手リーディング122位となっており、そのうち3勝はダイゴトツゲキによるものである。稲葉騎手は、1988年を最後に騎手を引退しているが、通算116勝でステッキを置いた彼にとって、この阪神3歳Sは、生涯一度だけのビッグタイトルとなった。

 だが、ダイゴトツゲキの戴冠の蔭で、悲劇が起こっていた。レース中の故障で競走を中止したニシノバルカンは、レース後に予後不良の診断を下され、安楽死処分となったのである。

 そして、ニシノバルカンの悲運は、ダイゴトツゲキの競走馬生活にも暗い陰を落とした。有力馬が故障したレースを優勝した馬には、なにかしら独特の翳が差してしまう。せっかく3戦3勝、無敗のままで3歳王者の地位へ登頂したダイゴトツゲキだったが、ニシノバルカンの非業の死は、本来無関係であるはずの勝ち馬をも巻き込んでしまう形となった。そして悲しいかな、ダイゴトツゲキには、その翳を自力で払いのけるほどの器はなかったのである。

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