阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~
『風は冷たく』
当時の競馬界は、ミスターシービー、シンボリルドルフという2頭の三冠馬がいずれも関東の厩舎から誕生したことに代表されるように、東高西低の風潮が明らかだった。特に牡馬クラシックレースでは関東勢が圧倒的であり、G制度導入前の1982年に日本ダービーでバンブーアトラスが優勝して以来、関西馬の優勝は途絶えたままだった。そんな時代だから、関西の3歳馬のレベルは、決して高くはなかった。
ただでさえ手薄なメンバーの上に1番人気ニシノバルカンの事故も重なって、ダイゴトツゲキへ向けられた世間の評価は冷たかった。その年の最優秀3歳牡馬に選出されたのは、当然のように朝日杯3歳S(Gl)を勝った関東の3歳王者スクラムダイナの方だった。また、競走馬の実力の客観的評価として、当時の日本では「優駿」誌のフリーハンデが権威ある指標とされていたが、これによればダイゴトツゲキは54kgとスクラムダイナよりも格下に置かれたばかりでなく、関東のナンバー2集団に過ぎないシリウスシンボリ、ダイナシュート、そして牝馬のエルプスと並ぶ評価しかされなかった。ちなみに同誌の基準を見ると、標準的な3歳王者はたいてい55kgに格付けされており、54kgクラスはというと、毎年少なくとも2頭、下手をすると4、5頭はいるレベルである。
当時の人々は三冠馬の誕生を2年続けて見せつけられており、3歳馬はよほどの印象を残さない限り、こうした名馬たちに比べられ、その影も薄く感じられる宿命にあった。無敗の3連勝といっても、一度も1番人気に支持されたことがない彼の評価は、低いものとならざるを得なかった。だが、3歳時のダイゴトツゲキへの評価は、彼の馬生からいうならば、まだましな方だった。話を翌年のクラシックでの可能性へと移した場合、有力候補としてダイゴトツゲキの名前を挙げる専門家やファンは、さらに少なくなった。
それでもダイゴトツゲキは、関西の3歳王者としてクラシックを戦う使命を果たさなければならなかった。この時点で関西の同世代に彼を凌駕する存在がいないことは、まごうことなき事実だったからである。しかし、無敗で3歳王者となったダイゴトツゲキの「ささやかな」唯一の勲章は、4歳になってすぐに、急速に色あせていった。
ダイゴトツゲキは、明け4歳となっての緒戦きさらぎ賞(Gl)で初めて1番人気に推されたものの、3着に沈んで期待を裏切ってしまった。「無敗の3歳王者」でありながら、もともとそれにふさわしい扱いを受けていたとは言い難かったダイゴトツゲキは、無敗でなくなったこの頃から、さらに無残な凋落を見せるようになってしまった。
『七転八倒』
ダイゴトツゲキが関西の大将格として東上して最初に出走したレースは、皐月賞トライアルのスプリングS(Gll)だった。ミホシンザン、スクラムダイナといった関東の強豪たちが顔をそろえたこのレースは、サザンフィーバーが非業の死を遂げたことでも知られている。だが、サザンフィーバーを乗り越えてこのレースを勝ったミホシンザンがこのレースを機に三冠の血を継ぐ者としてクラシック戦線の主役に踊り出る一方で、4着に敗れたダイゴトツゲキは、評価のさらなる低落に歯止めをかけることができなくなった。ライバルの死の翳を自ら払拭できた者とできなかった者―いま思えば、2頭の勝負づけは、このとき既に終わっていたのかもしれない。
この年のクラシック戦線は、ミホシンザンを中心に回っていくことになった。皐月賞はミホシンザンが2着スクラムダイナを5馬身ぶっちぎって圧勝した。そのミホシンザンが骨折で棒に振った日本ダービーでは、皐月賞不出走のシリウスシンボリがこれまた3馬身差で完勝し、シリウスシンボリが欧州遠征に旅立った菊花賞では、復帰なったミホシンザンが快勝を遂げて二冠を達成した。
だが、ダービー、菊花賞の出走馬の中に、ダイゴトツゲキの姿はなかった。皐月賞18着を最後にダービーを断念し、菊花賞に備えて戦線を離れたダイゴトツゲキは、復帰戦の神戸新聞杯で12頭だての7着に沈んだばかりか、屈腱炎まで発症し、レースに出走するどころではなくなっていた。
『屈辱』
ダイゴトツゲキはその後、温泉療養で屈腱炎の治療に務めたものの、その成果ははかばかしくなかった。そして、長期にわたる休養の間に、ダイゴトツゲキはGl馬にあるまじき、ある屈辱を味わうことになった。
当時、準オープンクラスは「1400万下」であり、5歳夏以降は2800万円以上の本賞金がなければ降級ということになっていた。しかし、当時の賞金体系の関係で、ダイゴトツゲキの本賞金は、この時点で2350万円だった。そのためダイゴトツゲキは、Gl馬でありながら賞金の関係で5歳夏に降級の対象となり、準オープンクラスへの格下げを食らってしまったのである。これは、屈辱以外の何者でもなかった。
しかし、彼がその屈辱を晴らそうにも、彼の脚はもういうことを聞いてくれなかった。吉田師をはじめとする厩舎関係者の長い努力にもかかわらず、ダイゴトツゲキの屈腱炎はなかなか快方に向かわなかった。
『ボロボロになって』
ダイゴトツゲキの現役登録が抹消された日付は、1988年3月とされている。くしくも主戦騎手だった稲葉騎手がステッキを置いたのと同じ年のことである。
長い治療の末ようやく症状が安定し、いったんは栗東へ帰厩して復帰を目指していたダイゴトツゲキだったが、その調教中にまたも屈腱炎が再発した。ダイゴトツゲキはそのとき7歳であり、同期のダービー馬シリウスシンボリやバイプレイヤーとしてならしたスダホークらは、まだまだ現役生活を続けていた。しかし、ダイゴトツゲキの脚部の状態では、もう彼らと同じように戦うことはできない。無理をしたとしても、待っているのは屈腱炎の再発か、あるいは栄光をさらに傷つける大敗かのどちらか、あるいは、その両方でしかない。ダイゴトツゲキの脚は、それほどボロボロになっていた。
そして、競走馬を引退したダイゴトツゲキの新しい用途は、「乗馬」となっていた。3歳時は3戦3勝、無敗でGlを制したダイゴトツゲキだったが、終わってみれば重賞勝ちはそのひとつだけである。また、1番人気になったのは1度だけで、しかもそのレースは負けてしまった。血統的に平凡だったこともあって、種牡馬としての魅力はないとされ、種牡馬入りは果たせなかったのである。ダイゴトツゲキは、G制度導入以降、Glを勝ち、かつレース中の事故で死亡したわけでもないのに種牡馬入りさえできなかった最初の牡馬となった。
ダイゴトツゲキのその後の足どりはつかめていない。悲しいかな、ダイゴトツゲキは、Gl馬でありながら種牡馬として血統表に名を残すことすら許されないまま、歴史の闇へと消えていったのである。(この章、了)