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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~

1988年2月24日生。2009年6月24日死亡。牡。栗毛。社台ファーム(早来)産。
父リアルシャダイ、母ダイナクラシック(母父ノーザンテースト)。中尾正厩舎(栗東)。
通算成績は、14戦5勝(3-5歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、NHK杯(Gll)、弥生賞(Gll)。

=イブキマイカグラの章=

『最後の阪神3歳S馬』

 1990年の勝ち馬イブキマイカグラは、この列伝の中で取り上げた阪神3歳S勝ち馬たちが血統的には高く評価されず、それゆえに冷遇されてきた中で、「良血」という意味では群を抜いた存在だった。デビュー前から「アンバーシャダイの甥で、名種牡馬リアルシャダイの子」として期待を集めたイブキマイカグラは、デビュー後もそんな期待に応え、阪神3歳Sを圧倒的なスピードで制覇した。このときの1分34秒4の勝ちタイムは、3年前にサッカーボーイが樹立した同レースのレコードを、0秒1短縮するものだった。

 イブキマイカグラが勝った翌年の91年から、阪神3歳Sは阪神3歳牝馬Sへと装いを改めることが決まっていた。こうしてイブキマイカグラは、伝統ある関西の3歳王者決定戦・阪神3歳S(Gl)の歴史の最後を飾ることになったのである。彼は「最後の阪神3歳S勝ち馬」として、その長く重い伝統を一身に背負い、クラシック戦線を戦うことになった。

 そんな彼の前に、クラシックを前に立ちはだかった強敵が、外国産馬リンドシェーバーだった。人間の事情ゆえにクラシック参戦を許されない外国産馬の強豪は、世代最強の華を手にするために、彼に戦いを挑んできたのである。

 クラシックの最有力候補であるイブキマイカグラは、その挑戦を受けたくなければ受けないこともできた。彼は、ここで戦わずともクラシックを勝つことで、伝統あるクラシックウィナーとして人々の賞賛を受けることができるからである。しかし、彼は戦うことを選んだ。それは、名だけの最強馬でなく、名実ともに備えた真の最強馬の地位を勝ち取るためだった。

 クラシックの権威を守るため、負けは許されない。彼が敗れることは、クラシックの権威を失墜せしめ、すべての内国産馬の誇りを泥にまみれさせるに等しかった。・・・だが、彼はそんな苦しい戦いにも、勝利を収めた。

 ・・・しかし、そんなイブキマイカグラを待っていた未来は、歴史あるクラシックの栄誉ではなく、思いもかけない運命の悪戯による屈辱だったのである―。

『名血』

 イブキマイカグラを生産したのは、日本最大の生産牧場・社台ファームである。活躍馬を多数輩出する社台ファーム屈指の名牝系ともいうべき一族に属するダイナクラシックを母、名種牡馬として日本の馬産を支えた一頭であるリアルシャダイを父に持つイブキマイカグラは、当時としてはかなりの良血馬として、デビュー前から注目を集めていた。

 イブキマイカグラの母ダイナクラシックは、彼女自身の戦績こそ1勝馬にすぎないものの、81年の有馬記念、83年の天皇賞・春を制した「闘将」アンバーシャダイの全妹にあたる。つまり、イブキマイカグラはアンバーシャダイの甥にあたる。また、ダイナクラシックの全妹サクラハゴロモは、イブキマイカグラの1歳下のいとことして、スプリンターズS(Gl)連覇を達成するサクラバクシンオーを産むことになる。ノーザンテーストの血を引く繁殖牝馬の活力で一時代を築いた社台ファームの中でも、80年代から90年代にかけてこれほど多様な活躍馬を立て続けに輩出した牝系は、そう多くはない。そんなダイナクラシックに交配されたのは、今度は後にノーザンテーストの連続リーディングサイヤーを11年で食い止めることになる、当時は新進種牡馬という位置づけにあったリアルシャダイだった。

 そんな血統に生まれてきた以上、イブキマイカグラに期待するなという方が無理な話である。実際に生まれてきたイブキマイカグラは、牡馬にしては馬格が少し小さめで、牧場の人々を少しがっかりさせた。しかし、彼は馬格こそ小さかったとはいえ、競走馬としてもっと大切な資質を備えていた。彼は、成長するにつれ、彼の心肺能力や丈夫さが並外れたものであり、そして何より、走ることが大好きだということが分かってきたのである。気性が激しくやんちゃだったため、牧場のスタッフは扱いに苦労したこともあるようだが、そんな性格こそ、競走馬としての不屈の闘志につながることも少なくない。それまで多くのGl馬を生産してきた社台ファームだが、そのスタッフたちも

「こいつは走るぞ」

と期待に満ちた目を、イブキマイカグラに注ぐようになっていった。

『原石のままに』

 3歳となったイブキマイカグラは、馬名も正式に決まり、栗東の中尾正厩舎に入厩することになった。彼の馬名は、冠名の「イブキ」(冠名)に「舞い」と「神楽」を加えた和風の名前である。まるで、この名前をつけた馬主が、後に彼が日本の馬産界の意地をかけて、ある外国産馬と激突する運命を知っていたかのような命名だった。

 イブキマイカグラの使い出しは非常に早く、小倉第2回開催の新馬戦で、早くもデビューを果たした。時はまだ7月半ばのことだった。

 もっとも、1番人気に支持されたイブキマイカグラのデビュー戦は、勝ち馬から2秒以上離されたブービーの7着に惨敗し、期待を無残に裏切ってしまった。敗因は簡単で、スタートしてすぐ、彼はヘンな方向へ走っていってしまったのである。イブキマイカグラは、日常生活ではそうでもなかったが、いざ競馬となると、人間のいうことをなかなかきいてくれない問題児になってしまった。

 中尾師は、そんな馬の狂気をコントロールすべく、イブキマイカグラの鞍上に南井克巳騎手を呼んでくることにした。当時、南井騎手は毎年リーディング上位に顔を出す、実力に定評のあるベテラン騎手だった。

 鞍上に南井騎手を迎えたイブキマイカグラは、翌週連闘で臨んだ新馬戦で今度こそ勝ち上がり、今度こそは順調にキャリアを積み上げ始めた。コーナーで膨らんだり、直線で内によれたり、と周囲をひやひやさせるシーンはあったものの、黄菊賞優勝、重賞初挑戦のデイリー杯3歳S(Gll)で3着に入るなど、それなりの結果を出したのである。いつも第4コーナーまでは、「後ろの方についていくのがやっと」という走りしかしないイブキマイカグラだったが、いざ直線に入ると、馬が変わったように爆発的な末脚を繰り出した。その走りは、確かに並々ならぬ素質と将来性を感じさせるものだった。

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