阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~
1982年5月12日生。死亡日不詳。牡。鹿毛。土井昭徳牧場(新冠)産。
父スポーツキー、母シルバーフアニー(母父ドン)。吉田三郎厩舎(栗東)。
通算成績は、7戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、京都3歳S(OP)。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『消えたGl』
日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。
もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。
その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。
だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。
阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。
「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。
もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。
=ダイゴトツゲキの章=
『忘れられた初代王者』
1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。
ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。
『足跡をたどって』
ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。
土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。
ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。
ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。
もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。
一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。
オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。
日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。
『ささやかな願い』
スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは
「こいつは走るんじゃないか」
と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、
「せめて1勝でもしてくれよ」
というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は
「牧場史上最高の大物になってくれよ」
と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。
『意外性の馬』
「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。
もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。
ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。
新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。
ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。