阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~
『未知への挑戦』
デイリー杯3着で戦績を5戦2勝2着1回3着1回としたイブキマイカグラは、阪神3歳S(Gl)へと駒を進めた。勝ったのがいずれも条件戦というイブキマイカグラは、実績としてはそれほどのものではなかったが、型破りの末脚と素質は、既に関西である程度の評判になっていた。この日のイブキマイカグラの単勝オッズは400円で、同じく360円の函館3歳S優勝馬ミルフォードスルーに次ぐ、差のない2番人気に支持された。水曜日の直前追い切りが、南井騎手の判断によって延期されたため、併せ馬の予定が変わってしまい、中尾師が激怒する、というアクシデントが伝えられていたイブキマイカグラだったが、そのことは人気にさしたる影響を与えなかったようである。
ところで、この年の阪神3歳Sは、阪神競馬場の改装工事のため、「阪神3歳S」といいながら、京都競馬場で開催されていた。もっとも、そのことが誰にどのように幸いするのか、神ならぬ人々はまだ知る由もなかった。
イブキマイカグラの欠点は、スタートが下手な点だった。しかし、この日の彼は、それほど出遅れることもなかった。普通に後方から・・・というスタートは、彼にとっては上々のものだった。
レースは、1番人気のミルフォードスルーが快調に逃げたため、1000m地点通過が58秒0というハイペースになった。だが、後方につけたイブキマイカグラは、スタートが比較的うまくいったこともあって、無理なくついて行くことができた。
ただ、南井騎手は、自分がある決断を迫られるであろうことを予測していた。イブキマイカグラのように後方待機で末脚勝負に賭ける馬は、宿命的にどこかで、距離のロスを承知で外を回るか、前が壁になることを覚悟で内をつくか、という選択を迫られる。その選択はいろいろ考える暇もなく、一瞬の決断によってなされなければならない。・・・そして、この日の南井騎手は、第4コーナーで後者を選択した。
すると、たまたまだったはずの京都開催は、イブキマイカグラに大きな幸運をもたらした。阪神に比べて広い京都の直線入り口で、イブキマイカグラの前は、あっさりとばらけたのである。イブキマイカグラが目指した最内に、ぽっかりと空間があいた。イブキマイカグラと南井騎手は、その空間に突っ込んだ。
『閃光の末脚』
次の瞬間、大観衆は閃光を見た。第4コーナーの直線入り口でなお後ろを数えたほうが早い位置にいたはずのイブキマイカグラなのに、彼は最内を割ってたちまち先頭に立ってしまったのである。先行して好位から直線で抜け出したはずのニホンピロアンデスをたちまちとらえ、あっという間に1馬身4分の1差をつけてしまったその完勝劇は、まさに閃光の末脚だった。
この日イブキマイカグラが記録した勝ちタイムの1分34秒4は、阪神3歳Sのレースレコードだった。阪神に比べて好タイムが出にくいとされていた京都で叩き出したイブキマイカグラのレコードの価値は、より大きなものだった。ファンは、イブキマイカグラのスケールの大きさに舌を巻き、「関西にもはや敵なし」とささやきあった。
その末脚で、たちまち他の陣営に白旗を掲げさせたイブキマイカグラが次に目指すものは、翌年のクラシック制覇、すなわち天下統一だった。中尾師は、3歳時に牡馬にしては小さな体で6戦も走った馬体の疲れを考慮し、次走を翌年3月の弥生賞(Gll)に設定した上で、それまでの間、馬を休ませることにした。弥生賞でひとたたきの後、皐月賞(Gl)、そして日本ダービー(Gl)へ・・・。それがイブキマイカグラのクラシックでの青写真だった。
しかし、クラシックを前にして、イブキマイカグラの前には早くも大きな壁が立ちはだかった。それは、イブキマイカグラがスターダムへと駆け上がった阪神3歳S(Gl)と同じ12月9日、中山競馬場で行われた朝日杯3歳S(Gl)を制し、東の3歳王者となったもう1頭の大物リンドシェーバーだった。
『大物マル外』
皐月賞(Gl)トライアルの中で最も早い時期に行われる弥生賞(Gll)は、クラシックの主役を次々と輩出してきた登竜門であり、それだけにクラシックを狙う有力若駒たちが、毎年集結して激戦を繰り広げてきた。ここで有力4歳馬同士が激突すること自体は、そう異例のことではない。
しかし、この年の特徴として例年と違った点もあった。それは、東上したイブキマイカグラを迎え撃つ関東の雄が、クラシックへの出走権を持たないリンドシェーバーだったことである。
リンドシェーバーは、前年に朝日杯3歳S(Gl)を制して東の3歳王者に輝いた外国産馬である。リンドシェーバーは、米国三冠レースですべてアファームドの2着に敗れた悲運の名馬アリダーの子であり、父そっくりの雄大で力みなぎる馬体でデビュー前から美浦の期待馬として注目を浴び、その噂は栗東にも聞こえてくるほどだった。いざデビューしてみてからも、そんな噂を裏切ることなく抜群のスピードで勝ちまくった彼は、朝日杯3歳S制覇をはじめ4戦3勝2着1回で3歳時を終えていた。
特に圧巻だったのは、朝日杯3歳Sでの勝ち方だった。1分34秒0のタイムは、マルゼンスキーのレコードを14年ぶりに塗り替える驚異の記録であり、マルゼンスキーのレコードを「不滅のレコード」と称えてきたファンの度肝を抜いた。リンドシェーバーには、「マルゼンスキーを超えた怪物」という異名すら言われ始めていた。
今振り返ると、リンドシェーバーが90年代のトレンドとなる「強い外国産馬」の流れに先鞭をつけた馬といっていい。主戦騎手は的場均騎手であり、日本競馬の七不思議のひとつといわれた「強いマル外はいつも的場」というジンクスも、この馬が原点となっている。
『負けられぬ理由』
そのリンドシェーバーは、4歳緒戦のヒヤシンスS(OP)で58kgの酷量すらものともせずに勝利で飾り、次なる標的を弥生賞に定めてきた。当時の弥生賞は、皐月賞トライアルでありながら外国産馬も出走可能だった。クラシックに出走できないリンドシェーバーにとって、弥生賞でクラシック候補たちを打ち破ることは、真の世代最強馬が自分であることを認めさせることでもあった。
それに対し、イブキマイカグラ陣営は、弥生賞といってもしょせんは本番前のひと叩きにすぎない。ここは回避して、同じ皐月賞トライアルであるスプリングS(Gll)、あるいは若葉S(OP)に回っても支障はあまりない。
だが、イブキマイカグラ陣営は、あえてリンドシェーバーと戦うことを選んだ。この時点でクラシックの最有力候補であるイブキマイカグラが、リンドシェーバーを相手に逃げたといわれれば、格式と伝統を誇るクラシックレースはしょせん「リンドシェーバーより弱い馬」どうしのコップの中の争いとして、いかにも興ざめなものとなってしまう。リンドシェーバーに自分を締め出すクラシックへの反抗心と最強馬への野望があるならば、イブキマイカグラにも阪神3歳Sをレコードで制した意地があり、クラシック最有力候補としての誇りがあった。
戦う理由がある以上、イブキマイカグラも絶対に負けるわけにはいかなかった。東西の3歳王者が外国産馬と内国産馬という違った立場で激突する弥生賞は、それゆえに互いが負けられない、存在意義を賭した決戦となった。
リンドシェーバーかイブキマイカグラか―。
それぞれ東西の3歳王者決定戦をレコードで制した強豪を比較するためには、直接対決以外の方法はない。さらに、リンドシェーバーのほうは外国産馬でクラシック出走権がない以上、この対決の後、当分直接対決はないことも明らかである。それゆえに、彼らの対決は、大いに盛り上がった。