ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~
『太陽の子』
丈夫なだけがとりえのダイタクヘリオスは、やがて清水牧場から太陽ファームへと移って育成されることになった。太陽ファームとは、清水牧場の次男が中村氏の後援を受けて清水牧場から独立する際に立ち上げた育成専門牧場である。やがて彼は、「太陽」の名にちなんでダイタクヘリオスという馬名に決まった。「ヘリオス」とは、ギリシャ神話に出てくる太陽神の名前である。
ところで、当時のダイタクヘリオスは、気の荒さなどどこにも感じさせない、とても落ち着いた静かな馬だった。洗い場にいる際に急な問題が起こった時には、担当者が洗い場につないだままその場を離れても、ダイタクヘリオスはいつまでもそのまま待っていたという。
そんなダイタクヘリオスが一度だけ手を焼かせたのは、栗東の梅田康雄厩舎に入厩することになり、栗東トレセンに旅立つために太陽ファームを離れる時だった。いつもは人間のいうことを素直に聞くダイタクヘリオスが、この日だけはなぜか馬運車に乗ることをいやがったのである。彼は、この日馬運車に乗ることをなぜいやがったのだろうか。彼を待つものが過酷な戦いの世界であることを知っていたからなのか、それとも慣れ親しんだ人々と引き離されることを悲しんだのか。
ちなみに、ダイタクヘリオスが「落ち着いた静かな馬」だったというのは牧場時代に限った話ではなく、梅田厩舎に入厩した後のダイタクヘリオスも、似たようなイメージだったという。ダイタクヘリオスという馬は、基本的には自分から問題を起こすことはない優等生だった。・・・あくまで競馬と関係のないところでは。
『雑草魂』
梅田厩舎への入厩は済ませたものの、血統的には目立ったものはなく、また調教で凄い時計を出すわけでもないダイタクヘリオスは、さほど注目を集める存在ではなかった。梅田厩舎は、87年こそ20勝を挙げたものの、それ以外の年は年間10勝台前半の関西の中堅厩舎で、開業後10年を過ぎても重賞勝ちがないという点も加味すれば、目立たないと言われても仕方がない立ち位置にいた。入厩する馬たちの質も恵まれていたとは言い難かったが、ダイタクヘリオスは、そんな平凡な他の入厩馬たちと並べても、特に目立つわけではなかった。
ダイタクヘリオスは、京都の新馬戦で、誰からも特別な視線を浴びることもないままデビューすることになった。彼に騎乗するのは、梅田厩舎の所属騎手であり、前年である1988年3月に騎手生活を始めたばかりの岸滋彦騎手だった。
岸騎手のダイタクヘリオスの第一印象は、「お世辞にも乗り味がいいとはいえない馬」だったという。しかし、ダイタクヘリオスは岸騎手が思ったよりは走った。初戦は物見をしながら、勝ち馬から約3馬身遅れの3着に入った。中1週で臨んだ折り返しの新馬戦でも、勝ち馬からは3馬身離されたとはいえ、2着に入った。岸騎手はようやくこの馬への認識を若干改めた。
「それなりの能力はあるかも・・・」
・・・デビュー直後のダイタクヘリオスとは、しょせんこの程度の馬だった。
『とんでもない奴』
ダイタクヘリオスが初めて一般からある程度の注目を浴びたといえば、おそらくはその次のレースだろう。当時の新馬戦は、デビュー戦と同一開催であれば、何度負けても繰り返し使うことができたため、理論上は4戦走ることもできた。・・・しかし、現実にそんな使い方をする調教師は、めったにいなかった。そんなにレースばかりを走らせていては、サラブレッドのガラスの脚はたちまち壊れてしまう。まして、後にGlを狙おうかという大物ならば、なおさら大切に使おうとするのが普通である。
ところが、ダイタクヘリオスは、2戦目の翌週に、3戦目の新馬戦を使われることになった。これは、梅田師も含めた周囲のダイタクヘリオスに対する認識を、雄弁に物語っている。
すると、ダイタクヘリオスは怒った。岸騎手の手綱をまったく無視して強烈に引っかかり、岸騎手の必死の指示もお構いなく、文字どおり暴れながら、めちゃくちゃな大逃げを打ったのである。その様子は、まるで3度も新馬戦に使われたことに「抗議」するかのようだった。
最初は何とかダイタクヘリオスを御しきろうと試みた岸騎手だったが、事態は彼の能力を超えていた。なんとも押さえられぬダイタクヘリオスに絶望した岸騎手は、
「もうどうにでもなれ」
と途中でダイタクヘリオスの統制をあきらめてしまった。岸騎手は、ダイタクヘリオスが道中のそう遠くないどこかで、無惨に沈没することを覚悟していた。
ところが、ダイタクヘリオスは、そのまま逃げ切ってしまった。この日の競馬を見ていたファンは、あまりの競馬にあきれ、驚き、そして笑った。「新馬勝ち」を収めた岸騎手ですら、この日はあまりのひどい内容に、喜びではなく恥ずかしさを感じずにはいられなかったという。一般に「新馬勝ち」といえばエリートコースのようにいわれるが、ことダイタクヘリオスに関していうならば、この勝利をもって「エリートの仲間入り」などという陳腐な賞賛の言葉を捧げることは、とてもできない。