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ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~

『嵐は去り・・・』

 マイルCSの後、梅田師はダイタクヘリオスの次走について、スプリンターズS(Gl)と有馬記念(Gl)のどちらか、としていた。ダイタクヘリオスの出否はレースの展開にも大きな影響を与えるため注目を集めたが、彼はなんとその両方に出走するというオチをつけて、人々を驚かせてくれた。これは、当時病床にあって入院中だった馬主の中村雅一氏の

「病室のテレビでヘリオスを見たい・・・」

という懇請に、梅田師が応えたものだった。

 とはいえ、1番人気に支持されたスプリンターズSでは馬群の中からの競馬となって4着に敗れ、有馬記念ではメジロパーマーとの逃げ比べになって見事に潰れ、12着に沈んだ。最後の最後までレースを荒らしまわったダイタクヘリオスらしい去り際だった。その輝かしい実績は、競走馬として稼いだ賞金は約6億9000万円弱と、当時としてはシンボリルドルフ、オグリキャップ、メジロマックイーンに続く史上4頭目の獲得賞金6億円突破を果たしたことによっても証明されている。

 しかし、最後の連敗も響いてか、1992年の最優秀短距離馬はニシノフラワー、最優秀父内国産馬はメジロパーマーにさらわれてしまった。気がついてみると、ダイタクヘリオスは一度もJRAの表彰馬に名を連ねることがなかった。彼の実績を考えれば、不思議なほどである。

 もっとも、ダイタクヘリオスという馬は、自ら桧舞台で脚光を浴びる主役はなく、常に舞台を引っかき回して観衆を沸かせる「舞台荒らし」という役回りがより似合っていたことも確かである。通算35戦10勝、重賞7勝をあげた彼だが、条件戦はともかくとして、重賞で1番人気に支持された4戦は、1度も勝つことができなかった。もっと極端なのは、ダイタクヘリオスが本格化した5歳以降、合計20戦走っているが、そのレースでは、自らも含めて1番人気馬がすべて負けている。出るだけで人気馬を飛ばすという、本命党にはトンでもなく、穴党にはこの上なくありがたい存在だった。

 そんなダイタクヘリオスがターフを去ることになったのだから、感慨が湧かない方が不思議というものである。まして、最も彼の身近にいた人々となれば、その思いもひとしおだった。

 梅田師は、ダイタクヘリオスの引退に際して

「あの馬のことはついによう分からなんだ・・・」

とぼやいた。また、岸騎手は、

「引退が決まったとき、先生や馬主さんには悪いけど、ほっとした・・・」

と述懐している。

「勝った時も含めて、一度も満足に乗れたことがなかった。全部馬に勝たせてもらった気がする・・・」

 だが、そう語る岸騎手こそ、ダイタクヘリオスの最高のパートナーだったということも、異論はないだろう。そうしたわけの分からなさも含めて、皆ダイタクヘリオスを愛していたのである。ダイタクヘリオスという名の競馬界の嵐はターフを去ったが、彼の思い出は、間違いなく残っていた。

『意外な素顔』

 現役を引退したダイタクヘリオスは、総額2億4000万円のシンジケートが組まれて種牡馬入りすることになった。ダイタクヘリオスが日高に向かった時、彼を迎えることになった種馬場の担当者は、「あのダイタクヘリオス」がやってくるということで、どんなに気が悪い馬なのだろう、とおそれおののいていた。ところが、実際に馬が到着してみると、拍子抜けしてしまったという。

「どんなに気が悪いのかと不安だったのに、いざ来てみたら大人しくて、ほとんど手のかからない馬だった・・・」

 もっとも、そんなダイタクヘリオス像は、現役時代とまったく異なるものではなかった。梅田厩舎でのダイタクヘリオスは、普段は至極おとなしく、人間に逆らって手を焼かされるようなことはまったくなかったという。だからこそ調教やらレースやらになると凄まじいかかりっぷりを見せるのは不思議ですらあったが、そんなダイタクヘリオスについて、梅田師は

「いつも一生懸命に走る馬だった。手抜きのできる馬だったら、折り合いもついただろうけど、これだけの馬にもならなかったかもしれない・・・」

と語る。競馬界の「お騒がせ男」「嵐を呼ぶ男」として知られたダイタクヘリオスだが、彼自身はそんな意識などまったくなく、ただヘンなところで賢く、いつも人間のために一生懸命なだけだったのかもしれない。種牡馬になった彼が人間たちを驚かせるといえば、放牧場で寝転がったまま立ち上がらないため、もしや怪我でもしたのかと駆け寄ってみると、寝転がったまま草をむしって食べていた・・・という笑い話の程度でしかないのだから。

『愛しききみへ』

 北海道に帰ってからもしばらくは平和な日々を過ごしたダイタクヘリオスだが、種付けシーズンを前に、一度だけ周囲をおおいに心配させる事件を起こしたことがある。彼は、種牡馬入りのための試情で、なかなか牝馬に関心を示さなかったのである。

 機嫌が悪いのかと思って次の日出直しても、結果は同じだった。虫の居所が悪いのか、とまた出直しても、やはり同じことが繰り返される。体調が悪いのか、と獣医に見せても、異常はない。このままでは、種牡馬入りどころではない。

 ところが、周囲が騒ぎ始めたころになって、ダイタクヘリオスはようやく牝馬に興味を示し始めた。最初の試情失敗から11日目には、あっさりと種牡馬検定に合格し、人々を安心させた。彼を取り巻く人々は、ダイタクヘリオスについてこんな噂をささやきあったという。

「ヘリオスは、本当はルビーでなければ興味がないのかも・・・」

 ・・・忘れ得ぬ恋人への思いを捨てられず、他の牝馬に興味などなかったダイタクヘリオスだが、周囲の人々が心配して騒いでいるのを見て、彼らを可哀想に思って御神輿を上げたのだというから、なんとも楽しい想像である。

『陽はまた昇る』

 さて、ダイイチルビーのような良血牝馬との交配の機会にはなかなか恵まれなかったダイタクヘリオスだが、彼の種牡馬としての成績は、繁殖牝馬の質がいまひとつだったにもかかわらず、なかなか堅実なものだった。だが、堅実な成績を残すだけでは、種牡馬としては生き残れない。大物が出ないとやはり印象は薄れていく。最初の5年ほどは毎年60頭前後の種付けがあったダイタクヘリオスだが、その後は種付け頭数が減少し、種牡馬生活8年目を迎えた2000年の種付けは、わずか6頭まで落ち込んだ。

 ところが、20世紀も終わりが迫った2000年秋、ダイタクヘリオスがまたもや競馬界に極大の暴風雨を巻き起こすとは、誰も予想できないことだった。

 20世紀最後のスプリンターズSの馬柱に名を連ねたのは、国際Gl2勝の実績を持つ、ダンチヒ産駒のアグネスワールド、スプリンターズS連覇を狙う、ヌレイエフ産駒のブラックホーク、春の短距離王決定戦である高松宮記念を制し、春秋スプリントGl制覇を目指す、ダンシングブレーヴ産駒のキングヘイロー・・・といった、世界に誇れる良血馬たちだった。だが、そんな中に1頭場違いに紛れ込んだ馬がいた。ダイタクヤマト、旧齢7歳。馬柱の上に輝く「マル父」の印は、父が内国産馬であることを示すものであり、並み居る「マル外」の中でファンの涙を誘った。彼こそダイタクヘリオスの息子であり、父がついに勝てなかったレースへと挑もうとしていたのである。

 もっとも、この日のダイタクヤマトは、「いてくれるだけでいい」存在のはずだった。重賞勝ちはなく、前走もセントウルS7着とあっては、単勝25750円の16頭だて16番人気となるのも仕方がなかった。

 ところが、そんなダイタクヤマトが、スタートから1分10秒ほど後、世界の名血馬たちを完膚無きまでに封じ込めて中山競馬場を戦慄と驚愕の渦に叩き込んだ。ダイタクヘリオスの子が、ダンチヒの子やヌレイエフの子を、力とスピードで圧倒して完勝したのである。

 その後、ダイタクヤマトは突然本格化して短距離界を席巻し、「20世紀最後の短距離王」と呼ばれるにふさわしい活躍を飾った。管理調教師の石坂正師は、彼のことを「奇跡の馬」と呼んだほどである。競馬界をレースのたびに嵐に巻き込んだダイタクヘリオスだが、種牡馬としても競馬ファンに嵐を見せつけたのだから、たいしたものと言わざるを得ない。

『君が教えてくれたこと』

 そんなダイタクヘリオスだが、寄る年波には勝てず、2008年12月12日、馬房で死亡しているのが発見された。前日に馬房へ入れた後、朝に放牧に出そうとしたところで発見されるという、安らかな最期だったという。

 その間、競馬界では時が流れ、人々もそれぞれの道を歩み、自分自身を生き続けている。

 ダイタクヘリオスの唯一無二のパートナーだった岸騎手は、1992年の3歳馬にもビワハヤヒデ、エルウェーウィンという2頭の強力なお手馬を擁し、これからの騎手生活も順風満帆であるかに思われていたが、この2頭が朝日杯3歳S(Gl)でかち合ってしまったころから、何かの歯車が狂い始めた。翌年のクラシックを見据えてビワハヤヒデを選んだ岸騎手だが、そのビワハヤヒデがよりによって選ばなかったエルウェーウィンの2着に負け、さらにその次走の共同通信杯4歳S(Glll)でも2着に負けるとそのビワハヤヒデをあっさりと取り上げられてしまうという悲運に泣いた。こうして一流馬との邂逅も減ってしまった岸騎手は、その後しだいに乗り鞍が減り、さらに交通事故に遭ったりもして、不遇の時を過ごした。1988年にデビューし、わずか4年間でGl4勝を挙げた岸騎手にとって、まさか92年のマイルCSが最後のGlになるとは、予想もできないことだった。

 岸騎手は、2003年2月に静かにステッキを置いた。わずか32歳での引退であり、かつて若手のホープとして「武、岡、岸」と並び称された彼が、当時から「ベテラン」といわれていたダイイチルビーの主戦騎手である河内騎手と時を同じくして騎手を引退するというのも、皮肉な話である。

 だが、岸騎手がダイタクヘリオスとともに歩んだ3年余りの中で得た何かは、これからの人生の中できっと彼を輝かせてくれるはずである。いや、岸騎手だけではない。ダイタクヘリオスという馬に魅せられ、引き込まれ、そしてさんざん翻弄されたすべてのファンもまた、彼から多くのことを教わったはずである。何が起こるかわからないのが競馬の魅力なら、それを彼に十分すぎるほど教えられた私たちは、彼の教えを信じて次なる「嵐」を楽しみに待ちたいものである。

 あらゆる意味で対照的な存在だった彼と彼女は、嵐のように激しい逃げと華のように華麗な追い込みで幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にしたのである

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