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ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~

『岸滋彦』

 ここでダイタクヘリオスの主戦騎手である岸騎手について触れておくと、彼は1988年3月に梅田厩舎の所属騎手としてデビューした、競馬学校騎手課程の第4期生である。同期には、岡潤一郎騎手、内田浩一騎手、千田輝彦騎手、菊澤隆徳騎手らがいる。

 …ただ、デビュー当時の岸騎手に特別な期待をかける向きは、ほとんどなかったといっていい。岸騎手自身の騎手学校での成績はお世辞にも優秀とはいえず、本人いわく、同期の中では断然の最下位だったという。

 さらに、岸騎手の所属が梅田厩舎という点も、少なくともデビューしたての若手騎手が勝ち星を伸ばすためにもっとも必要な要素…「自厩舎の強い馬に乗せてくれる」という点では、決して恵まれているとは言えなかった。梅田師が岸騎手を強い馬に乗せたくても、そもそも厩舎に「強い馬」と言える馬がいないのでは、どうしようもない。

 岸騎手にとって幸運だったのは、梅田師が妙なプライドを持った人物ではなく、岸騎手が梅田厩舎に所属することによって蒙る「不利」を不利として認める度量を持っていたことだった。前記の通り、自厩舎の出走馬と他厩舎からの騎乗依頼が重なったときは、他厩舎の騎乗依頼を選ぶよう岸騎手に申し渡していた梅田師の中には、自分の手ではいい馬に乗せてやれない岸騎手への申し訳なさもあったに違いない。そんな師の勧めに従い、岸騎手は、あちこちの厩舎に顔を出しては、自分を乗せてもらえるよう歩き回るようになった。

 もっとも、実績もない若手騎手が厩舎に顔を出すからといって、ただちに騎乗依頼が来るようになるほど、騎手の世界は甘いものではない。ところが、関西の調教師たちからの岸騎手の評判は、この頃、うなぎ上りとなりつつあった。

 競馬学校での成績は良くなかったという岸騎手だが、実戦に騎乗するようになると、非凡な騎乗センスを評価されるようになっていった。どの世界にも、「練習ではダメなくせに、本番ではやたらと強い」というタイプが存在するが、岸騎手は、まさに究極の実戦派だった。

 1年目の岸騎手は、いきなり36勝を挙げた。新人賞こそ44勝を挙げた岡潤一郎騎手に譲ったものの、新人離れした数字で、関西の調教師たちの間では

「岸は思ったより乗れるぞ」

という評判が広まっていった。さらに、2年目となる89年には、エリザベス女王杯(Gl)を20頭中20番人気のサンドピアリスで制し、重賞初制覇をGlで飾った。シンガリ人気でのGl制覇という衝撃も相まって、岸騎手への評判は

「岸はかなり乗れるぞ」

というものに変わり、騎乗依頼も次々と集まりつつあった。当時関西で若手のホープといえば、岡騎手と岸騎手であり、また1期上の武豊騎手のことだった。

 ・・・そんな岸騎手にも、なんとも御しきれない不思議な馬が、ダイタクヘリオスだった。岸騎手とダイタクヘリオスの戦いは、これからまだまだ続くのである。

『笑われる屈辱』

 3歳時は10月にデビューしてから3ヶ月で6戦をこなし、6戦2勝、Gl2着の実績を重ねてオープン馬の仲間入りを果たしたダイタクヘリオスだったが、4歳になってからも、彼はさらに元気に走り続けた。彼を悩ませたのは、疲労とは全く別の問題だった。

 シンザン記念(Glll)、2着。きさらぎ賞(Glll)、6着。スプリングS(Gll)、11着。ほぼ月に1回のペースで重賞戦線に参戦したダイタクヘリオスだったが、マイル戦では好走するものの、それを超える距離になると、着順が急に悪くなる。レースになると激烈にかかる彼に、距離の壁は大きなものとして立ちはだかってきた。クラシックの季節が近づくにつれて、その壁はより高いものとなっていった。

 惨敗の後、梅田師が肩を落として電車に乗り込むと、梅田師のそばで、ファンがダイタクヘリオスの話をして笑っていたという。悔しかった。ようやく手に入れたGl2着馬、ゆくゆくはもっと大きいところを狙おうと思わせてくれる自分の馬が、こんなところでばかにされていることが、我慢ならなかった。惨敗すれば、笑われる。ダイタクヘリオスの適性を短距離にあるとみた梅田師は、早々にダイタクヘリオスでのクラシックを断念し、短距離戦線を進むことにした。

 ちなみに、この年の春のクラシックは、皐月賞がハクタイセイ、ダービーがアイネスフウジンの優勝で幕を閉じている。この2つのレースでは、皐月賞では逃げ馬のアイネスフウジンが立ち遅れて人気薄の馬が逃げる形になっり、ダービーでは皐月賞の敗戦で人気を落としたアイネスフウジンが単騎逃げを打ったという展開が、レース結果に大きな影響をもたらしたと言われている。もしダイタクヘリオスがこれらのレースに参戦していたとすれば、彼自身が好走することは難しかったとしても、その先行力によってレース展開は大きく変わり、この年の春のクラシック戦線は、現実とはまったく違った結果になっていたかもしれない。

『狂気と意外性を秘めて』

 皐月賞、日本ダービーを断念してクリスタルC(Glll)に進んだダイタクヘリオスは、ハイペースにもかかわらず2番手から押し切る競馬で重賞初制覇を飾った。次に葵S(OP)に進むと、実績が災いしてこの時期の4歳馬には酷量といえる59kgを背負わされたが、1着で入線したアンビシャスホープが失格となったため、幸運な勝利をつかんだ。

 こうして短距離戦線に転じてから2連勝を飾ったダイタクヘリオスは、当時の4歳春の短距離戦線で最も重視されていたニュージーランドT4歳S(Gll)に参戦し、さざんか賞以来の1番人気にも支持された。…だが、1番人気になると弱いのがダイタクヘリオスである。この日のペースは前半800mが45秒5、1000mが57秒1となったが、同じ芝東京1600mで行われたこの年の安田記念(Gl)・・・古馬のマイル王決定戦のそれが45秒8、57秒2であることを考えれば、いくらなんでも無茶苦茶である。そんなハイペースを2番手で追走したダイタクヘリオスは、直線で一度は先頭に立ったものの失速し、ミュージックタイムに差し切られてしまった。・・・古馬Gl以上のハイペースを追走しつつ、2着に残るという狂気を秘めた、短距離の快速馬。そんな印象を残したダイタクヘリオスは、ひとまず放牧に出て休養に入ることになった。デビュー以来9ヶ月間で12戦を走った彼にとっての初めてのまともな休養は、秋の再起とさらなる飛躍を期するためだった。

 ダイタクヘリオスが北海道に戻っている間に、岸騎手はエイシンサニーでオークス(Gl)を制し、クラシックジョッキーの仲間入りを果たした。この年騎手免許の更新手続きを忘れる(スキーに行っていたという説もある)という大チョンボをやらかした岸騎手だが、5番人気のエイシンサニーで1番人気の桜花賞馬アグネスフローラを競り落とすことで、見事名誉挽回を果たしたのである。

 岸騎手が「牝馬の岸」「関西の大穴男」…そう呼ばれるようになったのも、このころのことである。ちなみに、弟子の活躍について水を向けられた梅田師は、

「よその馬でばかり、大きなところを取りよる。なんてデキの悪い弟子や」

とうそぶいている。それはさておき、新たな栄冠を手にした岸騎手は、彼とエイシンサニーによってアグネスフローラの牝馬二冠達成、そしてアグネスレディーに続く母子二代オークス制覇を阻止された河内洋騎手が、やがて彼とダイタクヘリオスとの前に大きく立ちはだかってくる運命を、いまだ知らない。

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