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ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~

『一族の光芒』

 そんなネヴァーイチバンの運命を大きく変えたのは、「ダイタク」の冠名で知られる馬主の中村雅一氏との出会いだった。たまたまその牧場に馬を見に来ていた中村氏が、何に惹かれたのかは不明だが、ネヴァーイチバンに目を付けたのである。

 馬主といえば、馬選びや馬の売買は調教師や仲買人にまかせっきりにする人も多いが、中村氏はそうした多数派とは一線を画していた。彼は自ら馬産地やセリ市を渡り歩いては、期待できそうな子馬や繁殖牝馬を自分の目で見つけてくることを、無上の楽しみとしていた。ネヴァーイチバンに目を付けたのも、やはり中村氏自身だったとされている。

 ネヴァーイチバンを買い取って自分のものとした中村氏は、彼女を当時から付き合いがあった清水牧場に預託することにした。前にいた牧場では、数いる繁殖牝馬の1頭としか扱われていなかったネヴァーイチバンだったが、中村氏は彼女に非常に大きな期待をかけており、その中村氏からじきじきに頼まれた清水牧場の人々の目も、それまでの牧場とは違ったものとなった。

 ・・・すると、ネヴァーイチバンが清水牧場にやってくるのとほぼ時を同じくして、それまで振るわなかったはずの彼女の一族が急に輝きを放ち始めたのだから、不思議なものである。

 ネヴァーイチバンが以前の牧場で生んだ産駒は7頭いたが、その成績は決して芳しいものではなかった。ところが、ネヴァーイチバンが清水牧場にやって来た後にデビューしたスイートラブは、その後北九州短距離Sなど7勝を挙げた。また、彼女が清水牧場で生んだ最初の産駒となるダイタクウィナーも、中央競馬で6勝をあげた。中村氏の喜びは大変なもので、ネヴァーイチバンはたちまち清水牧場、そして「ダイタク軍団」の基礎牝馬としての地位を与えられるようになっていった。

『悲運の父』

 1986年春、清水牧場の人々がネヴァーイチバンの交配相手に選んだのは、内国産種牡馬のビゼンニシキだった。

 ビゼンニシキといえば、1984年のクラシック戦線で皇帝シンボリルドルフのライバルとして知られている。・・・ただ、厳格な意味では、「ライバル」というには語弊があるだろう。ビゼンニシキは、シンボリルドルフと弥生賞(Gll)、皐月賞(Gl)、そして日本ダービー(Gl)の計3度戦ったものの、ついに1度も勝つことができなかった。とはいえ、ビゼンニシキにとって距離が長かった日本ダービーはともかく、あとの2戦では2着に健闘していることも事実であり、直線での叩き合いに持ち込んで最後までシンボリルドルフを苦しめた皐月賞は、「絶対皇帝」シンボリルドルフの輝かしい勝利の中で、最も苦戦したレースとされている。

 日本ダービーで惨敗して距離の限界を露呈したビゼンニシキは、秋は菊花賞戦線を諦め、マイル路線へと進んだ。なるほど、長距離適性に疑問があったビゼンニシキが菊花賞でシンボリルドルフを破るということが考えにくい以上、合理的な選択ではある。しかし、当時のマイル界には、クラシック戦線におけるシンボリルドルフと同様にマイル界で絶対的な強さを誇っていたニホンピロウィナーがいた。そして、そのニホンピロウィナーとの最初の対決となったスワンS(Gll)で、ビゼンニシキは、ハイペースでレースを引っ張るニホンピロウィナーを追走した際に故障を発症し、競走生命を失った。

 結局ビゼンニシキは、10戦6勝、重賞3勝という戦績を残し、Glの勲章はないままターフを去っていった。その持てる器からすれば、あまりにも乏しい実績といわざるを得ない。ダイタクヘリオスの父は、そんな悲運の馬だった。

『安馬ヘリオス』

 ネヴァーイチバンが、そんなビゼンニシキと交配されたことには、いくつかの理由があった。まず、清水牧場はもともとビゼンニシキのシンジケートの株を持っていた。次に、清水牧場の人々はもちろん、中村氏も内国産種牡馬が好きであり、清水牧場に来てからのネヴァーイチバンにも、アスワン、アンバーシャダイといった内国産種牡馬が交配されていた。

 そして何より、彼らの頭の中にあったのは、以前にネヴァーイチバンがテスコボーイとの間で産んだスイートラブが、スピード豊かな短距離馬として成功したことだった。彼らがビゼンニシキに期待していたのは、テスコボーイと同様、ネヴァーイチバンの血にスピードを注入してくれることだった。

 もっとも、同じスピード系種牡馬といっても、ビゼンニシキはテスコボーイと比べるとかなり格が落ちることは厳然たる事実である。輸入種牡馬のテスコボーイと違い、内国産馬として日本で走り、その実績もせいぜい一流半にすぎないビゼンニシキは、そもそも種牡馬としてそれほど期待されていたわけでもなかった。もし清水牧場がビゼンニシキの株を持っていなかったら・・・また、ネヴァーイチバンの子は中村氏が必ず買ってくれるという保証がなかったとしたら・・・それでもネヴァーイチバンにビゼンニシキを交配したかどうかは甚だ疑問である。

 1987年4月10日、ビゼンニシキとネヴァーイチバンの間に生まれたのがダイタクヘリオスだった。もっとも、当時のダイタクヘリオスの印象は、「何事においても平均点」というものだった。

「スイートラブに比べると落ちるなあ・・・」

と言われていたダイタクヘリオスだったが、身体と心肺機能が非常に丈夫で病気や怪我と無縁なことだけは目立っていたという。

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